1 アメリカへの留学
東京府士族吉益正雄娘亮以下三名撰挙米国留学ノ儀伺
公00601100
明治維新後、日本は欧米の制度や知識を積極的に導入しました。政府は多くの外国人を教師とする一方で、留学生を欧米に派遣し、様々な知識、技術を学ばせました。明治4年(1871)、不平等条約改正に向けた予備交渉と、各国の制度や文物の視察のために岩倉使節団が派遣されました。近代的な教育制度の創設を目指していた政府は、女子教育の必要性も認識しており、この時、使節団に津田梅子ら5人を随行させました。
明治5年には学制が発布され、教育制度の整備が始まりましたが、男子に比べ女子のための教育機関の設置は遅れました。女子に対しても欧米の知識を導入した教育が行われることになったものの、その目的は良妻賢母の育成とされ、学校の数も限られていました。これを補ったのが、「私立」の学校でした。自立した女性を育てる目的で鳩山春子が創設した共立女子職業学校(明治19年)や、下田歌子が創設した実践女学校(明治32年)のような職業学校、津田梅子が創設した女子英学塾(明治33年)など、様々な私立学校が創設されました。日本初の女医養成機関として吉岡弥生が設立した東京女医学校(明治33年)のように、専門性の高い教育を行う学校も生まれました。
これらの学校は、明治36年の専門学校令により、専門学校へ順次昇格し、次第に女子高等教育機関も充実していきました。
岩倉使節団に随行し、アメリカに渡った津田たちは、現地の家庭に預けられ、教育を受けました。5人のうち2人が病気で帰国しましたが、津田梅子(1864~1929)、山川捨松(1860~1919)、永井繁子(1862~1928)の3人は、約10年にわたって留学を続けました。
津田たちは明治15年に留学を終えて帰国しました。この時に身につけた知識や経験、多くの人々との出会いは、津田たちの生涯の中で、様々な形で活かされていくことになりました。
東京府士族吉益正雄娘亮以下三名撰挙米国留学ノ儀伺
公00601100
正大六位勲六等市村芳樹外五十一名叙勲ノ旨訓令ノ件
勲00668100
最年少の満6歳で渡米した津田は、日本弁務館書記でワシントンDCのジョージタウンに住むチャールズ・ランマン夫妻のもとに預けられ、コレジエト・インスティチュートで英語やピアノ、アーチャー・インスティチュートでラテン語やフランス語、自然科学などを学びました。
掲載資料は、昭和3年(1928)、津田梅子が勲五等瑞宝章を受章したときの文書です。文中には、2度にわたる留学を経て、明治33年女子英学塾を開設し、同36年には専門学校へと発展させたこと、また関東大震災に被災するも「毫モ屈スルコトナク直ニ仮校舎ヲ建設シ授業ヲ継続」したことなど、女子教育に従事し、英語普及に尽くした45年の功績が顕著であると記されています。
卿大山巌結婚願ノ件
公03657100
山川は、永井とともに、牧師でコネティカット州ニューヘイブンに住むレオナード・ベーコン夫妻のもとに預けられ、ヒルハウス・ハイスクール、ヴァッサー大学で学びました。ヴァッサー大学を卒業した山川は、アメリカの大学を卒業した初めての日本人女性となりました。さらに山川は、コネティカット看護婦養成学校に短期入学し、上級看護婦の資格を取得しました。一方、永井繁子は、ヴァッサー大学の音楽教員養成課程で学びました。
掲載資料は明治16年10月、山川捨松との結婚に際して、陸軍中将であった大山巌が提出した結婚願です。当時、陸軍武官結婚条例で、勅任官が結婚する場合には勅許を得ることが定められていました。山川が留学で培った語学と知識は、「 鹿鳴館外交」と呼ばれる社交の場で発揮されることになります。