6 華族女学校の開校
学習院規則中女子教科ヲ廃シ更ニ華族女学校ヲ設置ノ件
公04028100
華族のための学校として明治10年に設立された学習院は、男女ともに門戸が開かれていましたが、女子の人数は男子の3分の1にも満たず、明治18年、華族の女子のための教育機関として学習院から分離するかたちで華族女学校が開校しました。
下田歌子(1854~1936)は、学制発布後も女子のための教育機関の設置が遅れる中で、女子教育の充実に尽くしました。
明治5年(1872)、下田は宮中へ出仕、皇后から和歌の才能を評価され、「歌子」の名前を賜ります。明治12年、結婚のため宮中を辞すと、明治15年、自宅で女子教育のための私塾「桃夭女塾」を開きました。その後、伊藤博文に才能を見いだされた下田は、華族女学校設立に中心的な役割を果たします。華族女学校では、良妻賢母を育成することを目的とした教育が行われました。
学習院規則中女子教科ヲ廃シ更ニ華族女学校ヲ設置ノ件
公04028100
華族のための学校として明治10年に設立された学習院は、男女ともに門戸が開かれていましたが、女子の人数は男子の3分の1にも満たず、明治18年、華族の女子のための教育機関として学習院から分離するかたちで華族女学校が開校しました。
従三位勲四等下田歌子叙勲ノ件
勲00656100
明治26年、皇女教育のため、欧米の教育環境視察に出発し、イギリスではビクトリア女王に桂袴(女性の和装大礼服)で謁見を果たします。欧米では、多くの女性が自立した生活を送っている事に感銘をうけた下田は、それが教育と生活習慣によるものと考えました。帰国後の明治31年、下田は、帝国婦人協会を設立し、翌年には同会の事業として実践女学校、女子工芸学校を創設、校長に就任しました。明治41年、両校は合併して私立実践女学校になりました。
掲載資料は昭和2年(1927)、下田歌子が勲三等瑞宝章を受けた時の文書です。明治26年から同28年にかけての欧米視察で、「将来国家ノ中堅トシテ有為有能ナル婦女子ヲ養成スル教育機関ノ必要ヲ痛感」し、実践女学校を創設したことなど、女子教育の充実に取り組んだ功績が記されています。
実践女子専門学校(東京)
昭47文部01477100
私立実践女学校は、身分の上下に関係なく、女子も高い教養をもち、近代社会に順応した「国家の中堅」となる良妻賢母を育成するという目標を掲げていました。
掲載資料は、大正13年(1924)、実践女子専門学校設立について、文部省へ提出した申請書です。明治41年の実践女学校創立時に、高等専門学部として家政科・技芸科を合わせて設置し、大正9年には、就業年限3年の高等専門部(国文・家政・技芸の3専攻)に改組した経緯等が記述されています。