第二部 女性の社会進出
女子教育の広がりは、自立した個人として社会と関わることを促し、家庭から出て様々な分野に進出する女性が現れました。黒田チカや保井コノ、辻村みちよなどは、東京女子高等師範学校出身の研究者の草分けとして活躍し、母校で後に続く女性を育てました。
看護婦は、明治時代の早い時期から女性の職業とされ、高山盁や新島八重、萩原タケなど多くの女性が活躍しました。
また、社会福祉活動に尽くした瓜生イワ、家業を支え大企業へと育て上げた鈴木よねなど、男性と肩を並べて活躍する女性も現れました。
一方、産業の近代化によって、製糸工場などで多くの女性が働きはじめましたが、日露戦争前後の時期には、社会全体で産業の合理化が進み、小売業やサービス業が発展、タイピストや事務など、女性の仕事とされる職業が増え、これらの職業に就いた女性は「職業婦人」と呼ばれました。電話交換手は、看護婦と同じく、早くから女性の仕事とされ、電話の普及と共に規模が大きくなった職業でした。電話交換手の一人として、牟田口芳子をとりあげます。
昭和に入ると、女性の社会進出は一層広がり、中田正子や谷野せつのように、司法や行政の世界で活躍する女性が現れます。また、前畑秀子をはじめ、スポーツの世界で活躍する人々が現れ、オリンピックなどの世界的な舞台で結果を残しました。
芸術・文化の分野では、音楽で先駆的な業績を残した幸田延、安藤幸、日本画の世界で独自の画風を確立した上村松園などがいます。
黒田チカ 保井コノ 辻村みちよ -女性研究者の草分け-
学制の発布にはじまる全国的な教育改革によって、多くの教員が必要となりました。そのため、教員の養成を行う師範学校の設置が進められることになります。明治5年(1872)、日本初の官立師範学校が設立されました。これに続き、明治8年、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が開校します。同校は、当時の日本で数少ない女子高等教育機関であり、師範学校や高等女学校などの中等教育機関の教員の養成を行うほか、明治23年には女子高等師範学校となり、明治31年には研究科を設置して女子高等師範学校の教官の養成も行いました。研究科に進んだ学生の中には、より専門的で高度な知識、技術を身に着け、女性研究者の草分けとなっていく者も現れました。
黒田チカ肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
黒田チカ肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
15 日本初の女子大学生
東北帝国大学理科大学医科大学一覧
ヨ377-0062
黒田チカ(1884~1968)は佐賀県に生まれ、明治34年に同県師範学校を卒業。小学校教諭を経て、明治35年に女子高等師範学校理科に入学、明治40年に研究科に進み、明治42年に修了しました。大正2年(1913)には、丹下ウメ(後の日本女子大学校教授)、牧田らくと共に東北帝国大学に入学、29歳で日本初の女子大学生となります。当時、帝国大学では女子学生を受け入れていませんでした。東北帝国大学が女子の入学試験受験を認めたのに対して、文部省は事情説明を求めますが、大学側は黒田ら3人を合格としました。黒田は有機化学の分野で、天然色素に関する研究を行い、大正5年に東北帝大を卒業、女性初の理学士となりました。
掲載資料は、大正8年に刊行された東北帝国大学理科大学、医科大学の学校案内です。卒業者の一覧には、黒田とともに入学した丹下、牧田の名前も見えます。
16 東京女子高等師範学校教授に
鈴木尚三外十名任免ノ件○岐阜県警視広瀬久忠外二名任免、浦川敏介外二名任官、臨時産業調査局技師吉岡直富外二名任官並免職
任B00858100
黒田はその後、ベニバナの色素に関する研究によって、昭和4年(1929)に理学博士号を取得。保井コノに続いて日本で2人目の女性博士になりました。
掲載資料は、大正7年、黒田が東京女子高等師範学校教授に任命された際の裁可書です。黒田は昭和38年まで母校で教鞭をとりました。