第二部 女性の社会進出

日本赤十字社と看護婦

明治10年(1877)、西南戦争をきっかけに設立された博愛社では、女性が傷病者の看護を行うという欧米の考え方から、看護婦の養成が求められました。明治20年、博愛社をもとに設立された日本赤十字社は、明治22年から看護婦の養成を開始します。看護婦として、目覚ましい活躍を果たしたのが、たかやまみつはぎわらタケなど、看護婦の養成、監督の責任者である歴代の看護婦監督でした。
 また、明治20年、日本赤十字社の設立と同時に、日本赤十字社篤志看護婦人会がなべしまなが(1855~1941)らを発起人として発足しました。同会は日本赤十字社の看護事業を援助することを目的とし、戦争や災害などの際には、日本赤十字社の看護婦と共に看護活動に従事しました。

鍋島栄子肖像
出典:巌谷小波 等編『明治少女節用』
国立国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/1170023)
鍋島栄子肖像
出典:巌谷小波 等編『明治少女節用』
国立国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/1170023)

19 看護に従事する

高山みつ以下十六名勲位初叙及賜金ノ件

裁00111100

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高山盈(1843~1903)は、初代看護婦監督として、日本赤十字社の看護婦養成の土台を築きあげました。高山は学習院、華族女学校等の助教や舎監を経て、明治27年、日本赤十字社看護婦及同生徒監督となりました。日清戦争や北清事変では、従軍看護婦の責任者である看護婦取締として広島の病院で勤務しました。日清戦争後には、従軍看護婦としての功績が「婦人としては実に他に比類なき世の模範である」と評価され、にいじまらとともに日本人の民間女性では初の勲章受章者の一人になりました。

掲載資料は、高山らの叙勲に関する文書です。

20 看護婦を育てる

日本赤十字社特別社員萩原タケ外九名ヘ有功章授与ノ件

纂01334100

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萩原タケ(1873~1936)は明治26年、日本赤十字社病院救護看護婦養成所の第7回生となり、高山盈のくんとうを受けました。日清戦争、日露戦争に従軍看護婦として勤務したほか、明治29年の三陸津波の際には、救護看護婦として岩手県で傷病者の救護にあたりました。萩原は第4代看護婦監督として看護婦の養成に力を尽くし、2,300名を超える看護婦が萩原のもとから巣立ちました。

また、萩原は多くの国際会議にも出席し、その功績により、大正9年(1920)、赤十字国際委員会による第1回ナイチンゲールしょうを受章しました。世界全体で52名が受章し、日本女性は萩原をはじめ3名でした。掲載資料は大正4年に萩原がゆうこうしょうを受章した際の功績調書です。

21 看護婦の社会的地位向上へ

鍋島栄子叙勲ノ件

勲00766100

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鍋島は安政2年(1855)、広橋家の5女として京都に生まれます。宮中に仕えたのち、明治14年にイタリア公使であったなべしまなおひろ(1846~1921)とローマで結婚。帰国後は外交官夫人の草分けとして、社交の場で活躍しました。

日本赤十字社篤志看護婦人会設立時には発起人となり、30年以上にわたって会長を務めました。日本赤十字社が発足した頃、看護婦という職業への社会的評価は高くありませんでした。しかし、鍋島は篤志看護婦人会に参加する他の華族の女性たちと共に、自ら看護の現場に参加することで、看護婦の社会的な地位を引き上げたと言われます。

掲載資料は昭和11年(1936)に鍋島が勲三等ずいほうしょうを受章した際の上申書です。