地震と噴火

安政の江戸地震

安政あんせい2年10月2日(1855年11月11日)の夜10時ごろ、江戸をマグニチュード6.9(推定値。以下同じ)の直下型地震が襲いました。震央は東京湾の北部と推定され、激震地域は本所・深川・浅草・下谷など江戸の下町。武士と町人を合わせて1万人前後の命が失われました。なかでも遊郭新吉原の被害は甚大で、建物の倒壊に火災が重なり1000人ほどの犠牲者が出たと言われています。

安政の江戸地震は、元禄16年(1703)の「元禄地震」以来約150年ぶりの大震災だったこともあって、人々が受けた衝撃は大きく、震災体験者のさまざまな手記やルポルタージュが著されました。

安政東海地震・安政南海地震

1850年代には、江戸地震ばかりでなく巨大地震が相次いで発生し、各地に甚大な被害をもたらしました。嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の午前8時過ぎに起きた「安政東海地震」(マグニチュード8.4。嘉永7年は11月27日に安政と改元)もその一つ。被害は関東から近畿に及び、なかでも沼津から伊勢湾にかけての沿岸地域の被害が最も大きく、沼津は城も城下も大半が崩れ、甲府でも町家の約7割が倒壊しました。また房総から土佐までの沿岸を襲った津波による被害も大きく、この地震によって倒壊あるいは焼失した家屋の総数は約3万軒、死者は2000〜3000人に達したと推定されています。

「安政東海地震」の発生からわずか32時間後、11月5日午後4時頃にマグニチュード8.4の大地震が畿内から東海、北陸、南海、山陰、山陽道の広い地域を襲いました。「安政南海地震」です。被害は中部地方から九州に及び、紀伊半島から四国にかけての太平洋沿岸は大津波に洗われ、大坂でも多数の水死者が出ましたが、「安政東海地震」と時間的に接し過ぎているため、この地震による被害の全貌を特定するのは困難だと言われています。

このほか同年6月15日には伊賀上野地方が大地震(「伊賀上野地震」)に見舞われ、安政5年(1858)2月26日には、現在の富山県と岐阜県の県境付近で大地震(「飛越ひえつ地震」)が発生し、立山カルデラに面する鳶山とんびやまが大崩落(「鳶崩とんびくずれ」)しています。1850年代の日本は大揺れ。まさに天下大変の時代でした。

善光寺地震

弘化4年3月24日(1847年5月8日)午後9時頃、長野県北部を震源とする地震が善光寺領一帯を襲いました。大きさはマグニチュード7.4。現在の長野市周辺域では震度7の揺れが感じられたと推定されています。「善光寺地震」と呼ばれるこの地震とその後発生した火災によって善光寺町はほぼ壊滅し、山間地では地すべりや山崩れが多発しました。なかでも大規模だったのは岩倉山(虚空蔵山こくぞうやま)の崩落で、この結果犀川さいがわの流れがせき止められて湖が生まれ、さらに地震から20日後の4月13日にせき止めた箇所が決壊して、洪水が下流にある川中島平の村々を直撃しました。あらかじめ洪水に備えて高台に避難していた住民が多かったため洪水による死者は比較的少数でしたが(100人余)、「善光寺地震」による死者の総数は1万人以上と推定されています。

文政京都地震

文政13年7月2日(1830年8月19日)の午後4時頃、京都の町を直下型の地震が襲いました。マグニチュード6.5。「文政京都地震」は京都の町にとって寛文かんぶん2年(1662)以来168年ぶりの大震災となりました。御所は築地塀ついじべいが倒れ外からまる見えになり、市中に満足な土蔵は一つもなく、洛中洛外の死者は700人に達したと伝えられています(死者の数については諸説あり)。地震を機に12月10日、文政は天保と改元されましたが、その後もなかなか余震がおさまらず、巷には「天ばかり保っても地の揺れは止むまい」と改元を茶化した説が流布したとか。またこの年は「おかげ参り」が流行していて、震災は京都の人が伊勢参りの人々に十分施さなかったことに対する神罰だとする説もささやかれたそうです。

越後三条地震

文政11年11月12日(1828年12月18日)の午前8時頃、越後村上藩領三条町(現在の新潟県三条市)で発生した大地震(「越後三条地震」)は直下型でマグニチュード6.9。三条町を中心に越後平野の町村に甚大な被害を及ぼしました。三条町では三条御坊(東本願寺三条掛所かけしょ)が倒壊したほか、地震後に起きた火災によって町の大半が類焼、200人以上が即死したということです。村上藩は罹災者に米や金を与えると共に復興資金を貸し付けて領内の復興を促しました。

文政の有珠山うすざん噴火

2000年春に起きた北海道有珠山うすざんの噴火は記憶に新しいところですが、有珠山は江戸時代から今日に至るまで何度か大きな噴火を繰り返しています。文政5年閏正月19日(1822年3月12日)の「山焼やまやけ」もその一つです。寛文3年(1663)に数千年ぶりに大噴火した有珠山は、明和めいわ5年(1768)頃にも噴火。さらにその50数年後に起きた文政の大噴火は、アブタ(虻田)の集落を火砕流が襲うなど、多くの人命(死者82人)を奪いました。

島原大変しまばらたいへん

1990年11月に噴火を始めた長崎県の雲仙普賢岳ふげんだけは、翌91年6月に大量の火砕流を発生させ、43名の人命を奪いました。しかしこの惨事から約200年前、寛政かんせい4年(1792)の普賢岳噴火がもたらした被害はさらに大きく、4月1日(1792年5月21日)の激震と普賢岳の東方に位置する前山(眉山まゆやま)の崩壊、そしてその直後に起きた大津波によって、わが国の火山災害史上最大の犠牲者(推定約1万5千人)を記録しました。眉山の崩落が「岩なだれ」を起こし島原城下を壊滅状態にしたばかりでなく、津波は対岸の肥後国にも襲いかかり、肥後の沿岸部だけで5000人前後の命が失われたということです。このため寛政4年の雲仙普賢岳の火山災害は、「島原大変」あるいは「島原大変肥後迷惑ひごめいわく」と呼ばれました。

天明てんめい浅間焼あさまや

天明てんめい3年7月8日(1783年8月5日)の浅間山の大噴火は、「天明の浅間焼け」の名で呼ばれています。この年4月に始まった噴火活動は6月末になって激しさを増し、7月6日、7日に大きな噴火があったのち、8日の午前10時頃最大規模の噴火を起こしました。浅間山の北斜面を猛スピードで流れ下った火砕流は土砂を巻き込みながら麓の鎌原かんばら村(現在の群馬県吾妻あがつま嬬恋つまごい村鎌原)を直撃し、高所の観音堂に避難した93人を除く477人の命が瞬時に失われました。火砕流はその後吾妻川に流れ込み、泥流となって下流の村々を襲い、千数百人の死者を出したということです。またこの噴火で上空高く舞い上がった火山灰は、気温の低下を助長し、天明の飢饉に拍車をかけました。

安永あんえいの桜島大噴火

天明3年(1783)の浅間山大噴火による降灰を、江戸の人々が日光か筑波の噴火と誤った理由を、『後見草』は「すぎし頃薩摩国桜島の焼ける日、空曇り灰降りぬ、これはそれよりも多かれは、遠国にてはよもあらし」と記しています。先年、桜島が噴火したときも江戸に灰が降ったが、今回は降灰の量がそれより多いので、もっと近場に違いないと判断したというのです。

この噴火は、安永あんえい8年10月1日(1779年11月8日)のもの。文明ぶんめい年間の噴火(1471―78)、大正3年(1914)の大正噴火と並ぶ桜島三大噴火の一つです。「安永の大噴火」の日は前日から地震が頻発し、海水が紫色に変色、海岸の井戸水が沸騰したとか。午後2時頃に始まった大噴火は翌朝まで続き、大量の溶岩が流出して海岸まで達しました。その後も海底噴火が続き、新島(燃島)など新しい島(安永諸島)が誕生。死者は140人以上と言われています。

宝永ほうえい地震

宝永ほうえい4年10月4日(1707年10月28日)の午後2時頃、東海道以西から九州におよぶ広い地域を最大級の地震(マグニチュード8.4)が襲いました。被害は東海道と伊勢湾・紀伊半島が最も大きく、東海道の宿駅の一つ袋井(現在の静岡県袋井市)は全壊(ちなみに袋井宿は安政地震の折も全焼しています)。浜松や四日市等も半壊し、地震の影響で道後温泉は145日も湯が止まりました。津波の被害も甚大で、「宝永地震」による死者は、すくなく見積もっても2万人以上と推定されています。

富士山の宝永噴火

「宝永地震」から49日後、宝永4年11月23日(1707年12月16日)の午前10時頃、富土山南東斜面に火口が開き大噴火が始まり、翌日まで激しい噴火が続きました。噴火活動は同年12月に至って終息しましたが、大量の岩と砂が村々の家屋を倒壊し耕地を埋めると共に、降砂が河川に流入して洪水を誘発し、長期にわたり広範な地域に甚大な被害を与えました。宝永年間(1704―11)には、富士山のほか桜島、浅間山、三宅島でも噴火が確認されています。「宝永地震」と富士の大噴火そして「元禄地震」(後述)。18世紀初頭の日本列島は激しく揺れ動いていました。

元禄地震

「宝永地震」の4年前、元禄16年11月23日(1703年12月31日)未明、関東地方南部を中心に「元禄地震」(最大マグニチュード8.2)があり、小田原城下はほぼ全滅、大津波が犬吠埼いぬぼうさきから下田に至る沿岸部を襲い多くの人命が失われました。犠牲者の数は、房総半島の沿岸部だけでも6500人以上と言われています。この地震は、また大規模な地盤の変動を伴い、その結果、南房総の各地に隆起が生じました。「元禄段丘」と呼ばれるこの段丘の上に形成された集落は今日に至っています。

その他

江戸時代の資料には、災害史上著名な大地震ばかりでなく、より規模の小さい(しかしそれぞれの体験者には大きな衝撃とすくなからぬ被害を与えた)地震も記録されています。また大地震のあとには、地震に対する関心の高まりに応えようと、地震関係書も出版されました。