飢饉

天保の飢饉

地震・雷・火事に次いで恐いもの。それは親父おやじに決まっていると言われるかもしれませんが、実のところ、 江戸時代の人々が親父はもとより地震・雷・火事以上に恐れていたのは、凶作とそれに続く飢饉だったのではないでしょうか。江戸時代の飢饉と言えば「享保の飢饉」「天明の飢饉」「天保の飢饉」の三大飢饉がよく知られています。このうち「天保の飢饉」は、天保4年(1833)から同7、8年にかけて全国を襲った飢饉で、天候不順による深刻な冷害で凶作となった東北各地で多数の餓死者を出したほか、天保8年、大坂で窮民に対して適切な救済措置がとられないことに憤激した大塩平八郎おおしおへいはちろうが豪商を襲撃して火を放つなど、各地で一揆や打ちこわしを誘発しました。「天保の飢饉」による死者は、餓死・疫病死とりまぜて全国で20〜30万人に達したと推定されています。

天明の飢饉

天明年間(1781―89)の大凶作も全国各地に深刻な飢饉をもたらしました。なかでも東北地方の状況は悲惨そのもので、天候不順に領主側の判断ミスも重なり、多くの餓死者が出ました(津軽藩だけで死者10数万人に達したとか)。天明3年の浅間山の大噴火も、大気中に大量の微粒子を噴上げたことで冷害の原因の一つとなり、飢饉に拍車をかけたと言われています。食糧を求めて領外へ逃亡する人。力尽きて餓死する人。そして飢餓の余り牛馬犬猫はもとより人間の死肉を喰らう人の姿も。言語に絶する情景が各地で目撃されました。

享保の飢饉

享保17年(1732)、気候不順による作物の成育不良に大規模な虫害(ウンカなど)が加わり、畿内以西は大凶作となり、深刻な飢饉が生じました。「享保の飢饉」の被害者は、幕府が掌握しているだけで餓死者1万2千人余。たおれ牛馬(死亡した牛馬)も1万4千頭を超え、200万近い人が飢えに苦しんだということです。もっとも筑前福岡藩領だけで6〜7万人が餓死したという推計もあり、実際の餓死者の数はこれをはるかに上回っていたと思われます。

幕府は勘定所の役人を派遣し各地の被害状況を速やかに把握すると共に、東国の米を救援米として急送して被害の拡大を抑えようとしました。また民間の篤志家に金品の義捐を勧奨し、寄付者名簿は享保19年、『仁風一覧じんぷういちらん』として刊行されます(天保8年刊行の『仁風便覧』は、この『仁風一覧』に倣ったもの)。幸い翌18年は豊作で飢饉は比較的短期間で終わりましたが、「享保の飢饉」は江戸の町にも飛び火しました。大量の救援米が西国に回された結果、江戸の米価が急騰し、日本橋の米問屋高間伝兵衛たかまでんべえの店が襲撃されたのです。「高間騒動」は江戸時代の都市における最初の打ちこわし事件でした。

飢饉への備え

三大飢饉をはじめとする度重なる飢饉の体験は、おのずと備荒びこう救荒きゅうこう(飢饉への備えと対応)に関する知識の需要を高めました。凶作をどうしたら予測できるか。飢饉に対してどのような備えをしておくべきか。不幸にして飢饉となり食糧が枯渇こかつしたとき、なにを食べて餓えをしのげばいいのか。そしてそれはどこで手に入れられるのか、等々。これら切実な問いに答え飢饉の被害をすこしでも和らげようと、民間に蓄積された智恵や文献に記された情報を収集して、さまざまな飢饉対策の書が著されました。