風水害

安政3年の大風水害

江戸の町は大坂と並んで水の都であり、利根川・江戸川・荒川・隅田川をはじめ、中小の河川と掘割が、交通や物流に重要な役割をはたしていました。平素は大都市江戸の暮らしを支えていた大小の河川や水路ですが、反面それらは豪雨が続くとたちまち洪水の発生源と化しました。水の都は、同時に水害都市でもあったのです。

安政3年8月25日(1856年9月23日)、江戸は大風雨に襲われ、市中のほとんどの家屋が損壊。寺社や橋の被害も大きく、前年10月の震災に倍する大災害となりました。

天明6年の大水害

天明6年7月12日(1786年8月5日)から数日間降り続いた大雨で、江戸市中はいたるところで浸水し、小石川・下谷・浅草・本所・深川などで大きな被害を出しました。6月初旬以来の長雨に大雨が加わった結果大きな水害となったのですが、この水害には人災の側面もすくなくありませんでした。両国橋の東岸等の埋め立てで隅田川が狭められ、増量した河水が溢れ出やすくなっていたのです。

寛保かんぽう2年の大風水害

寛保2年8月1日(1742年8月30日)、関東地方を襲った強風と豪雨は、江戸に深刻な風水害をもたらしました。利根川上流の水かさが増した影響で両国橋・新大橋・永代橋等が損壊し、やがて堤が切れて本所・深川・亀戸など広い地域が水に浸り、溺死者が続出したのです。8日になって再び風雨が強まると、小日向の辺でも床上5尺の浸水が見られたとか。幕府は橋の修復を急ぐと共に、本所・深川方面に船を出して避難者の救助に努め、また被災地域の治安の維持をはかりました。

ひょうと雷

地震・噴火・洪水だけではありません。竜巻が発生し、空から氷の塊が降り雷が落ちれば、人々は恐怖におののきました。江戸時代の資料には、これら小規模な災害も詳しく記録されています。