火災

文政12年の江戸大火(佐久間町さくまちょう火事)

文政12年3月21日(1829年4月24日)の午前10時過ぎ、神田佐久間町河岸かしの材木小屋から出た火は、強い西北の風にあおられて日本橋・京橋・芝一帯を焼き、翌朝ようやく鎮火しました。焼死者2800人余。江戸の人々にとっては明和9年(1772)以来の大火でした。

明和9年の江戸大火(目黒行人坂ぎょうにんざか火事)

明和めいわ9年2月29日(1772年4月1日)の昼過ぎ、目黒行人坂大円寺より出た火は、強い西南の風にのって麻布・芝・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草・千住まで燃え広がりました。同日の日暮れ時には、本郷丸山菊坂の道具屋からも出火。駒込・谷中・根岸一帯に延焼しました。さしもの大火も翌日中には鎮火しましたが、被害は大きく、約170の大名屋敷が類焼したほか、焼け落ちた橋や寺社は数知れず。死者と行方不明者合わせた犠牲者の数は1万人とも2万人とも言われています。明和9年は「めいわくの年」(明和9と迷惑の語呂合わせ)とかねてから不吉をささやく声がありましたが、はたしてこのありさま。11月16日、明和は安永と改元されました。

明暦3年の江戸大火(振袖ふりそで火事・丸山まるやま火事)

文政12年(1829)と明和9年(1772)の大火以外にも、江戸は何度か大きな火災に見舞われました。文化3年(1806)の「車町くるまちょう火事(牛町火事とも)」、寛政6年(1794)の「桜田火事」、享保きょうほう2年(1717)の「小石川馬場火事」、元禄16年(1703)の「水戸様みとさま火事」、同11年の「勅額ちょくがく火事」、そして八百屋お七で知られる天和てんな2年(1682)の「お七火事」等々。しかし江戸開府以来最大最悪の火災といえば、明暦3年(1657)の大火以上のものはありません。同年正月18日(1657年3月2日)、本郷丸山の本妙寺から出た火が北西の強風で深川・牛島新田まで広がったのに始まり、翌19日にも小石川鷹匠たかじょう町で出火。火は江戸城本丸・二丸・三丸に及び、天守閣ほかを炎上させました。さらに夜に入って麹町5丁目からも火が出て、両日の火災で500以上の町と大名屋敷が焼け(ほかに300以上の神社仏閣、61の橋が焼失)、死者の数も10万人以上に達しました。

天明8年の京都大火

火事と喧嘩は江戸の花。とはいえ火事は江戸だけで起きたのではありません。たとえば京都の町も宝永5年(1708)と享保15年(1730)の大火で大きな被害をこうむりました。京都の町が経験した最大の火事は、天明8年(1788)の大火。同年正月30日(1788年3月7日)の午前5時頃、宮川町団栗図子どんぐりずし(鴨川の東、団栗橋と建仁寺の間の小路。「図子」は小路の意)から出た火は、強風に乗って市街をなめ尽くし、御所や二条城を炎上させたほか1400以上の町と200以上の寺を焼くなど、京都の町に壊滅的な被害をもたらしたのです。死者の数は定かでありませんが、古都の貴重な文化財や歴史的建造物の多くが、この火災によって灰燼かいじんに帰しました。

防火と消火

開府以来江戸の町は幾度も大きな火災に見舞われましたが、この状況を幕府は座視していたわけではありません。明暦の大火は幕閣たちに強い衝撃を与え、火除地ひよけち(延焼を防ぐための空閑地)の増設や寺社の移転など江戸の防災化を軸とした都市計画が実施されました。8代将軍吉宗よしむね(在職期間1716―45)は、瓦葺きや土蔵造りを奨励するなど、江戸の家屋・建造物の難燃化をはかりました。吉宗の時代にはまた、町奉行大岡忠相ただすけの指導の下、町人による消防組織(町火消まちびけし)が編成され、従来の大名火消・じょう火消(旗本を任命)等と合わせて江戸の消火に当たることとなりました。町火消は約20町ごとに47組に編成され(組名はいろは47文字を採用。ただし「へ」「ら」「ひ」の3字は障りがあるとして避けられ、代わりに「百」「千」「万」を使用。また深川・本所など隅田川の東側の町については、別に16の組を設けました)、その後は町火消が消火活動の主力となり、町方の負担で雇われた鳶職とびしょくなどの火消人足が、それぞれの組の象徴であるまといの下に活躍することになります。当時の消火の基本は「破壊消防」、家屋を破壊して出来るだけ延焼を防ごうとするものでした。おのずと火事場は衝突やいざこざが絶えず、気性が荒いうえに団結心に富む火消人足たちは、しばしば江戸の喧嘩の火種となりました。