[請求番号 163-0181]
公人朝夕人は、徳川幕府が編纂した『御実紀』(ごじっき 徳川実紀)にも登場します。
慶長8年(1603)3月25日、徳川家康は将軍宣下(朝廷が宣旨を下して征夷大将軍に任命すること)の謝意を表するために参内。このとき「公人朝夕人十人」が随従したことが『東照宮御実紀』に記されています。慶長10年(1605)4月26日には、2代将軍秀忠が同じく将軍宣下の拝賀のため参内。その行列にも公人朝夕人が加わりました(『台徳院殿御実紀』)。そして3代将軍家光の参内のときも。
展示資料には、家光が元和9年(1623)8月6日に参内した際の行列の編成が記されていますが、この行列の中にも公人朝夕人が見えます。将軍の参内には不可欠の存在だったのでしょう。
とはいえ将軍が上京参内したのは、家康・秀忠・家光の三代以降は、幕末の家茂(14代)・慶喜(15代)だけ。しかも家茂や慶喜の参内に随従したという記録は見当たりません。その意味で、公人朝夕人は究極の閑職でした。
展示資料は、同書に綴じられた寛政2年(1790)の書付によって、播磨国姫路藩主の酒井雅楽頭が越中守(松平定信)に提出した旧記のうち、幕府の年録(日記)に欠けている部分を抜き書きしたものであることがわかります。
全2冊。昌平坂学問所旧蔵。