治承・寿永の内乱 主な戦いの流れ

治承4年
(1180)
5月以仁王もちひとおうの挙兵 平家追討を掲げた以仁王の令旨に呼応し、源頼政みなもとのよりまさが挙兵。平家の軍勢に敗れた頼政は宇治平等院で自害、以仁王も討死。
8月石橋山いしばしやまの戦い 源頼朝みなもとのよりとも挙兵。伊豆国目代いずのくにもくだい山木兼やまきかねたかの襲撃に成功するが、大庭景親おおばかげちからが率いる平家方の軍勢に惨敗。安房あわのくにに逃れて再起を図る。
10月富士川ふじがわの戦い 各地の源氏が挙兵し、頼朝に合流。駿河するがのくに富士川で、平維盛たいらのこれもりが率いる追討軍と対峙するも、平家方が総崩れとなる。
12月南都なんと焼討やきうち 平家に反抗的な南都なんと(東大寺・興福寺)に対し、清盛が焼討ちを命令。平重衡たいらのしげひらの軍勢の攻撃で伽藍焼失。翌年閏2月、清盛死去。
寿永2年
(1183)
4月伽羅からとうげの戦い 以仁王の令旨に呼応した木曾きそよしなかが挙兵、北陸道の進撃を続ける。砺波山となみやまの倶利伽羅峠では平家の軍勢に勝利。
11月ほう住寺じゅうじ合戦 義仲の軍勢に追われて平家一門は都落ち。入京した義仲は後白河院ごしらかわいんと対立。院の御所である法住寺を攻撃して政権を掌握する。
寿永3年
(1184)
1月宇治川の戦い頼朝から義仲追討の命を受け、源範頼みなもとののりより源義経みなもとのよしつねの軍勢が京へ進攻。宇治川の防衛に失敗した義仲の軍勢は敗走し、義仲は討死。
2月一ノ谷いちのたにの戦い 摂津せっつのくに福原ふくはらで勢力を盛り返した平家の軍勢を義経の軍勢が攻撃。平家一門は海へ逃れる。たいらの忠度ただのりあつもりら平家の主な武将が討死。
寿永4年
(1185)
2月屋島やしまの戦い 讃岐さぬきのくに屋島やしまに本拠を置いた平家の軍勢を、義経が暴風雨の中を奇襲。平家一門は本州・四国の拠点を失い、再び海へと逃れる。
3月壇ノ浦だんのうらの戦い 長門ながとのくに赤間関壇ノ浦あかまがせきだんのうらでの戦いで平家の軍勢が壊滅。安徳あんとく天皇てんのう二位にいのあまたいらのとももり入水じゅすいけん礼門院れいもんいん徳子とくこたいらのむねもりらは捕縛される。
※元号については源氏・平氏・朝廷で異なるものを用いていますが、ここでは治承と寿永に統一しています。