挿絵で読む平家物語
平家都落ち
延暦寺の僧兵を味方につけた木曾義仲の軍勢五万騎あまりが都に迫る。これを知った前内大臣宗盛(清盛の子)は、安徳天皇と共に平家一門の都落ちを決意する。
小松三位中将維盛は妻子を都に残し、斎藤別当実盛の遺児たちに護衛を任せて落ち延びていく。また歌人でもあった薩摩守忠度(清盛の弟)は、和歌の師である五条三位俊成(藤原俊成)に和歌を託して落ち延びるなど、各々が都の人々と別れを惜しみ、自邸に火を放って都を去る。池大納言頼盛(清盛の弟)の一族だけは、かつて母の池禅尼が頼朝の命を救った縁を頼み、都に残ることを決める。
挿絵は畠山重能都落ちの場面。畠山重能は小松家(清盛の長男である重盛の一族)に仕えた人物。重能は、かつての主人である重盛の墓が、源氏の手にかかって暴かれることを恐れ、墓を掘り返して遺骨を高野山へ送ると、一族の待つ東国へと落ちて行った。
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法住寺合戦
義仲はついに入京し、左馬頭に任じられて朝日将軍と称して実権を握った。
しかし義仲は、牛車の作法もわからないなど、その田舎ぶりを貴族たちに蔑まれる。また折からの飢饉も原因となって、飢えた兵たちが都で乱暴狼藉を働くようになる。
その頃、西国を漂泊していた平家一門は讃岐国屋島(現在の香川県高松市)に拠点を置き、勢力を盛り返す。義仲はこれを制圧するため、備中国水島(現在の岡山県倉敷市)へ軍勢を派遣するが、新中納言知盛(清盛の子)・能登守教経(清盛の甥)率いる平家の軍勢に敗北、義仲から人心は離れ、いよいよ立場を悪くする。
この間、後白河院は密かに頼朝に接近し、義仲追討を画策する。これを知った義仲は、後白河院の御所である法住寺殿を攻撃。強引に実権を奪い取り、朝政を思いのままにする。
挿絵は法住寺殿を守る鼓判官(平知康)の様子(左)。塀の上にのぼるなど、おかしな戦支度を敵味方ともに笑われる場面。
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