挿絵で読む平家物語

富士川ふじがわの戦い

 頼朝挙兵の一報を受けた清盛は、維盛これもり(清盛の孫)を大将とした三万騎あまりの軍勢を東国に向かわせる。駿河するが国に到着する頃には七万騎あまりの大軍勢となっていた。一方、頼朝の軍勢にも甲斐かい信濃しなのの源氏が合流し、黄瀬川きせがわ(現在の静岡県沼津市)に着陣する頃にはおよそ二十万騎の大軍勢となっていた。
 維盛は東国に詳しい斎藤別当実盛さいとうべっとうさねもり(斎藤実盛、もとは義朝の配下で武蔵むさし国の住人)を呼び寄せ、東国の様子を説明させる。実盛は「東国の武者は、親や子が討たれてもそのしかばねを乗り越えて向かってくる。肉親の死を嘆き、供養する西国の武者とは違う」と語り、それを聞いた兵たちはその凄まじさに震え上がる。
 そして富士川を挟んで両軍は対峙たいじし、翌日に開戦を控えた頃、頼朝の陣から炊事の煙があがるのを篝火かがりびと勘違いし、平家方の兵たちは動揺する。そしてその夜、富士川から飛び立った水鳥の羽音に驚いた兵たちは、夜襲と勘違いして潰走かいそうするのだった。
 逃げ帰ってきた維盛に対して、清盛は激怒。福原遷都も断念する。
 挿絵は水鳥が飛び立つ音に兵が驚く場面。背景には富士山が描かれている。

▼写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

南都焼討なんとやきうち

 以仁王にくみした南都(東大寺・興福寺)の僧兵たちは、清盛から討伐の命令が下るのを予期し、先手を打って蜂起する。すぐに平家の軍勢が鎮圧に向かうが、兵は次々に討ち取られ、猿沢さるさわの池のほとりに首をさらされた。これを耳にした清盛は激怒し、重衡しげひら(清盛の子)を大将とした軍勢四万騎を南都に向かわせた。まず奈良坂ならざか般若坂はんにゃざかで両軍がぶつかり、多くの僧兵が討ち取られる。
 戦いは夜に及び、重衡は火を焚くよう命じる。兵は松明たいまつを作り、民家に火をつけた。十二月の冷たい風に吹かれた火は瞬く間に燃え広がり、東大寺・興福寺の伽藍がらんを焼き尽くした。逃げ遅れた老僧や女性、子供たちは東大寺大仏殿の二階へ逃れたが、廬舎那仏るしゃなぶつ像(奈良の大仏)と共に猛火に飲まれ、数千人が犠牲になったという。
 重衡の武功に清盛は喜ぶが、鎮護国家のために聖武しょうむ天皇が建立した寺社が滅んだことを知った貴族たちは世の行く末を嘆いた。
 挿絵は炎上する伽藍と逃げ惑う人々。服装は江戸時代前期のものである。

▼写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。