挿絵で読む平家物語
清盛の死
南都焼討の翌月、度重なる心労から高倉院が若くして崩御した。そしてさらにその翌月、清盛が熱病に伏す。
清盛が水を汲んだ石の浴槽に入ると、その水がたちまち熱湯になってしまう。水を体に直接かけてもすぐに沸騰してしまう。人々はこれを南都焼討の報いだと噂する。
そして清盛は「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言し、苦しみ抜いた末に死去した。
時に、幽閉を解かれた後白河院が院政を再開、信濃で木曾義仲(源義仲、頼朝の従兄弟)が挙兵するという折の出来事だった。
木曾義仲は破竹の勢いで進撃を開始、平家が盤石の体制で支配していた北陸を瞬く間に配下におさめていった。平家方の城長茂が四万の兵で義仲追討に発向するが、横田河原(現在の長野県長野市)で、義仲の奇計にかかって敗走する。
挿絵は浴槽の中で苦しむ清盛。平家の公達が心配そうに様子をうかがっている。
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木曾義仲の快進撃
木曾義仲は幼い頃に、父の帯刀先生(源義賢、義朝の弟で頼朝の叔父)を殺害され、以降は木曾の豪族中原兼遠に養育されていた。頼朝挙兵の報せを受け、自らも兵を挙げた義仲は、東山道・北陸道の平家方の軍勢を次々と撃破していく。
砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市~石川県河北郡津幡町)では奇襲を仕掛け、平家方の大軍勢を谷の下へと追い落とした。
また義仲は加賀国篠原(現在の石川県加賀市)でも平家方の軍勢を破る。このとき義仲の手勢は、平家方の武将の斎藤別当実盛(斎藤実盛)を討ち取るが、皮肉なことに、実盛は幼少期の義仲を救い、敵の手から木曾へ逃がした人物だった。実盛の首を池の水で洗うと、黒髪は白髪となり、実盛が老武者として侮られまいと髪を染めていたことを義仲は知り、涙する。
そして、比叡山延暦寺との同盟を結んだ義仲は、いよいよ上洛を果たす。
挿絵は倶利伽羅峠の戦いの様子。平家方の兵が崖下に落ちている。
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