挿絵で読む平家物語
木曾最期
後白河院の要請を受け、頼朝はついに義仲追討を掲げて軍勢を京に向かわせる。その大将は頼朝の弟たち、蒲冠者範頼(源範頼)と九郎義経(源義経)だった。
義仲は彼らの入京を阻止するべく、宇治川を防衛するがついに突破され、義仲の軍勢は潰走。落ち延びていく途上、木曾から従ってきた義仲の家臣たちは次々と討ち取られ、ついにたった七騎となった。
義仲は共に戦ってきた女武者の巴を落ち延びさせ、自身は自害することを決意する。しかし薄氷の張った深田にはまり、身動きがとれなくなってしまう。さらに乳母子(乳母の子で乳兄弟ともいう、兄弟同然に育った家臣)の今井四郎兼平(今井兼平)が敵に囲まれたことに気を取られ、その隙をつかれてとうとう義仲は雑兵に討たれてしまう。そしてこれを見た兼平もまた自害して果てた。
挿絵は氷の張った深田にはまって身動きが取れなくなったところ、額を矢で射抜かれてしまう義仲(左)。
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一ノ谷の戦い
完全に勢力を盛り返した平家一門は福原に戻り、再びの上洛を画策していた。特に能登守教経の活躍によって、平家に刃向かう者は次々と打ち破られ、西国の多くが平家の支配下となっていた。
そこで蒲冠者範頼・九郎義経は、後白河院の命を受けて、平家が持ち去った三種の神器を奪還すべく、西国に向けて発向する。そして源平の両軍はついに摂津国一ノ谷(現在の兵庫県神戸市須磨区)で対峙する。
九郎義経は軍勢を率いて一ノ谷の背後、鵯越へと回ると、崖を駆け下りて平家の陣の背後から襲い掛かった。この奇襲によって平家の軍勢は敗走。歌人としても高名だった薩摩守忠度、まだ十七歳だった無官大夫敦盛(清盛の甥)、父の知盛をかばった武蔵守知章(清盛の孫)、皇后宮亮経正(清盛の甥)、越前三位通盛(清盛の甥)らは討死。また本三位中将重衡は生け捕りとなり、平家一門は主な武将をほとんど失った。
新中納言知盛ら、残された武将たちは海へ逃れる。
挿絵は鵯越の逆落としの場面。右下には油断している平家の武将が描かれている。
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