挿絵で読む平家物語
平家断絶
この頃、梶原景時の讒言をきっかけに九郎義経と頼朝は不仲となり、ついに鎌倉から義経追討の討手が差し向けられる。さらには義経追討の院宣も下り、義経は奥州へと落ち延びて行った。
そして北条時政(頼朝の義父)は平家の生き残りの捜索を始め、平家の遺児たちを次々と殺害していった。特に北条氏が捜していたのは、清盛から嫡流の曾孫に当たる男児の六代御前(維盛の子)だった。六代は山深い寺に匿われていたが、仔犬を追いかけて外に走り出たところを目撃され、ついに捕縛された。一時は命を救われ、出家して高雄山に隠棲していたが、やがて長じると鎌倉殿(当時の将軍、ここでは頼家か実朝)の命令で斬られた。こうして、平家嫡流の血筋はついに絶えたのである。
挿絵は仔犬を追いかける六代(右上)とそれをたしなめる女房たち(左上)。籬(垣根)の隙間からは北条の手の者が中を覗いている(右下)。
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エピローグ――灌頂巻
我が子の安徳天皇をはじめ、親兄弟を悉く失った建礼門院は、長楽寺(現在の京都市東山区円山)で出家。我が子の菩提を弔うため、安徳天皇の形見の御衣を寺に納めた。そして山深い大原寂光院(現在の京都市左京区大原)に居を移した。多くの人々にかしずかれた頃と異なり、わずかな女房と共に借り物の輿で移動する有様に、女房たちは涙する。
そしてその翌年、後白河院が大原を訪れる。庵室のあまりの侘しさに院は驚く。そして院と再会した建礼門院は、自らの波乱の生涯を六道輪廻(人が善悪の業によって生まれ変わっては六つの世界を巡ること)に例えた。これを聞いた後白河院は涙にむせぶ。
そして数年後、建礼門院は病に伏した。仏像に結んだ五色の糸を手に取り、念仏を唱えると、紫雲が現れ、清らかな音楽と共に阿弥陀仏が来迎する。こうして、建礼門院は極楽往生を遂げ、波乱の生涯を閉じた。
灌頂巻は琵琶法師のあいだで奥義・秘伝として特別視された巻である。挿絵は花摘みから帰ってきた建礼門院(左上)とそれを庵室で待つ後白河院(中央)。
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