Ⅱ蔵書家列伝

しぶちゅうさい(1805~1858)

渋江抽斎は、江戸時代後期の弘前藩の藩医・書誌学者です。

名は全善かねよし、字はりょう、通称はどうじゅん、雅号は抽斎といい、藩医として弘前藩に仕えるかたわら、狩谷棭斎・多紀元堅らに書誌学を学びました。そして、我が国に伝わる多くの漢籍や古写本を収録し、江戸期の書誌学における最もすぐれた業績といわれる『けいせきほう』を、書誌学者・森立之もりたつゆき(1807~1885)らと編纂したことで知られています。

頓医抄・太平武鑑

20とんしょう

特059-0001

『頓医抄』

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『頓医抄』は、鎌倉時代の医者・かじわらしょうぜん(1266~1337)が著した医学書です。

中国の医学書をもととしながら、性全の自説を加えたものです。同書は「和文」(仮名まじり文)で書かれ、鎌倉時代を代表する医学書といわれています。

掲載資料は、室町時代の末期に書写されたもので、不足部分は江戸時代初期の写本を加えて補っています。まず、儒学者・市野迷庵いちのめいあん(1765~1826)が入手し、狩谷棭斎・渋江抽斎の所蔵を経て、明治19年(1886)に明治政府が購入しました。全25冊です。

『頓医抄』の蔵書印

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「弘前医官渋/江氏蔵書記」→渋江抽斎の蔵書印です。

『頓医抄』の跋文ばつぶん

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『頓医抄』第25冊の末尾には、多紀元堅の跋文があります。そこには「医学書の収集に熱心ではない儒学者・市野迷庵のもとに、なぜこのような素晴らしい医学書があったのか」と書物伝来の不思議さを述べています。また、「頓医抄」と記した題簽だいせん(書名を記した紙片)は、狩谷棭斎の直筆であると述べています。なお、「庚戌こうじゅつ」は嘉永3年(1850)にあたります。

21太平たいへいかん

151-0290

『太平武鑑』

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『太平武鑑』は、元禄8年(1695)に刊行された大名や旗本などの名鑑です。具体的には、大名や幕府役人の名前・系図・家紋などの情報が掲載されています。元禄期にはそれぞれの版元から多くの工夫を凝らした武鑑が刊行されました。中でもはら兵衛へえは、武鑑の刊行でその名を知られた江戸の書肆しょしでした。

掲載資料には、「秘閣図/書之章」・「内閣/文庫」印があり、全3冊です。

『太平武鑑』

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『太平武鑑』は、元禄8年(1695)に刊行された大名や旗本などの名鑑です。具体的には、大名や幕府役人の名前・系図・家紋などの情報が掲載されています。元禄期にはそれぞれの版元から多くの工夫を凝らした武鑑が刊行されました。中でもはら兵衛へえは、武鑑の刊行でその名を知られた江戸の書肆しょしでした。

掲載資料には、「秘閣図/書之章」・「内閣/文庫」印があり、全3冊です。

渋江抽斎と武鑑

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武鑑は、通常半紙半切の縦本からなり、毎年・毎月、改定増補することが慣例でした。この体裁は、正徳2年(1712)の『正徳武鑑』から踏襲されています。それ以前のまだ内容や形式が不確定だった武鑑は「かん」と称され、渋江抽斎はこれら「古武鑑」の書誌学研究を行いました。