Ⅱ蔵書家列伝

おおどうかん(1432~1486)

太田道灌は、関東管領かんとうかんれい上杉氏の一族・上杉定正さだまさの家臣として、室町時代に活躍した武将です。幼名はつる、元服して資長すけなが持資もちすけとする説あり)と名乗りました。康正元年(1455)に家督を継ぐと、江戸に城を築き、関東平野で行われた30以上もの合戦に参加し、数多くの戦功を挙げました。

武将としてのイメージが強い道灌ですが、幼少の頃より鎌倉の禅寺で学問を修めた、学者としての一面を持ち合わせています。文明18年(1486)には、隅田川の船上や、父親の住む越生おごせ(現在の埼玉県越生町)で詩歌会を催しており、このような風流な一面が「山吹やまぶきの里」の逸話を生んだと考えられます。

なお、剃髪ていはつして「道灌」と称するようになったのは、文明10年頃といわれています。

宋学士文粋・常山紀談

14そうがくぶんすい

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『宋学士文粋』

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『宋学士文粋』は、明の時代の政治家であり文人でもあった宋濂そうれん(1310~1381)の詩文集です。「学士」は官名で、宋濂が「かんりんがく」(詔勅しょうちょく(天皇が発する文書の総称)などの起草を担当)となったことにもとづく名称です。

掲載資料は、明の洪武10年(1377)に刊行されたもので、全3冊です。

表紙には「新宮城書蔵」の蔵書印があります。この印は、紀伊国新宮しんぐう城主・和歌山藩付家老の水野忠央ただなかの蔵書印です。水野忠央(1814~1865)は、国学や有職故実に精通し、蔵書家としても有名な人物です。

『宋学士文粋』の蔵書印

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「含雪巣」→太田道灌の蔵書印。「含雪がんせつ」は「雪景色の見える窓」、「そう」は「住居」のことと考えられます。

15じょうざんだん

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『常山紀談』

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『常山紀談』は、江戸時代中期に成立した逸話集で、戦国武将の逸話470条を収めています。著者は、岡山藩に仕えた儒学者・あさじょうざん(1708~1781)です。

明和4年(1767)の序文がある刊本で、全30冊です。

山吹やまぶきの里」の逸話

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「山吹の里」の逸話は、太田道灌が歌道に励むきっかけとなったといわれる物語です。

鷹狩りの途中、雨に降られた道灌は、雨具の「みの」を借りるため、近くの小屋を訪ねます。すると若い娘が出てきて、何も言わずに「山吹の花」を差し出しました。雨具を借りることができず、怒って屋敷に戻った道灌でしたが、人に「その娘は『七重八重花は咲けども山吹の実の・・ひとつだになきぞ悲しき』の歌を用い、『の』を『みの』に掛けて『一つの簑さえないことは悲しい(=我が家に簑はございません)』と述べたのです」と説明されます。道灌は、娘の学問に驚くとともに、自身が歌道に暗いことを恥じ、その後は、歌道の勉強に励んだといわれています。

〔翻刻〕
鷹狩たかがりに出て雨にあひ/ある小屋にいりみのをからんといふにわかき女の何とも物をばいはず/して山ぶきの花一枝をりいだしければ花をもとむるにあらずとて/いかりかへりしに是をききし人のそれは七重八重花はさけども/やまぶきのみのひとつだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろ/なるべしといふ持資もちすけおどろきてそれより歌に志をよせけり