Ⅰ内閣文庫のコレクション形成に寄与した人物たち

むらけんどう(1736~1802)

木村蒹葭堂は、江戸時代の大坂の豪商で、本名はこうきょう、蒹葭堂はその雅号で、通称は坪井屋きちといいます。「蒹葭」とは、水辺に生えるイネ科の植物「よし」のことで、家に井戸を掘った時に葦の根が出土したことにちなみ、自身の雅号としました。

蒹葭堂は、家業の造り酒屋を営むかたわら、書画骨董の収集に努め、書斎には万巻の書物を蔵し、数多くの鉱物標本や動物標本などを集めました。そのコレクションは、質・量ともに素晴らしく、全国からその名を慕って人々が集まったため、蒹葭堂の邸宅は、文化サロンのようになりました。

蒹葭堂が死去すると、漢籍を中心とする約3,000冊の蔵書が幕府に献上されました。文化元年(1804)、その蔵書は昌平坂学問所に収蔵され、当館に受け継がれています。

宋版鉅宋広韻

09重要文化財 宋版鉅宋広韻そうはんきょそうこういん

重003-0003

重要文化財 『宋版鉅宋広韻』

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『鉅宋広韻』は、26,194の漢字を、206のいん(漢字音の末尾の響き)に基づいて分類整理し、それぞれの漢字の発音と意味とを記した韻書といわれるものです。韻は、漢詩などを作る際に重要であるため、中国では韻書の需要が高く、宋から明の初期にかけて広く普及し、多くの版本が存在しています。ちなみに題名の「鉅宋」とは「偉大な宋王朝」という意味です。

掲載資料は、『鉅宋広韻』のうちで最も古い南宋の時代の刊本で、一冊も欠けずに現在まで伝わるものは、当館の所蔵本だけです。本書には「己丑建寧府黄三八郎書鋪印行」という刊行に関する記載があり、「ちゅう」(じっかんじゅうによる年代の数え方。60年で一巡する。)が何年なのか、議論を呼んでいました。刊行年代の候補として、北宋の皇祐こうゆう元年(1049)、南宋の大観たいかん3年(1109)、乾道けんどう5年(1169)が考えられていましたが、書誌学的調査により乾道5年(1169)と判明しました。本資料は、献上された木村蒹葭堂の蔵書のうち最も貴重な書物の一つです。

昭和32年(1957)、国の重要文化財に指定されました。

『宋版鉅宋広韻』の蔵書印

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『宋版鉅宋広韻』の蔵書印です。

『宋版鉅宋広韻』の蔵書印

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  1. ①「蒹葭堂/蔵書印」→木村蒹葭堂の蔵書印。蒹葭堂の蔵書印は多種多様ですが、当館ではこの印を押したものが最も多く収蔵されています。
  2. ②「蒹葭/蔵書」→木村蒹葭堂の蔵書印。
  3. ③「浅草文庫」
  4. ④「日本/政府/図書」
  5. 表紙「昌平坂/学問所」
  6. 表紙「蒹葭堂秘不許出閫外」→木村蒹葭堂の蔵書印。

皇祐元年説の根拠

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『宋版鉅宋広韻』の表紙には「皇祐元年刻本」と墨書してあります。これは本書が「皇祐元年」(1049)に刊行されたとするものです。

皇祐年間(1049~1054)は、北宋の時代の年号です。当時の皇帝は、仁宗じんそう(在位1022~1063)で、いみな(本名)は「てい」といいました。掲載資料の「禎」字はもちろんのこと、「貞」がつく文字すべてに「欠画けつかく」がみられるため、刊行年代を皇祐元年と推定したと考えられます。

皇祐元年説・大観3年説の誤り

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「己丑」に関する3つの説のうち、皇祐元年(1049)と大観3年(1109)が誤りだとする根拠の1つに「構」字の「欠画」があげられます。

高宗(在位1127~1162)の諱(本名)が「構」ですので、「構」字に「欠画」がある『宋版鉅宋広韻』の刊行年代は、高宗の在位期間以降ということになります。さらに、文字の様式や、本書を作成した職人の名前など、書誌学的な調査を総合すると、「己丑」は乾道5年(1169)とするのが最もふさわしいということになります。