Ⅰ内閣文庫のコレクション形成に寄与した人物たち

市橋いちはし長昭ながあき(1773~1814)

市橋長昭はしょう藩の7代目藩主です。仁正寺藩(現在の滋賀県もう郡日野町)は、1万7000石の藩で、文久2年(1862)より西にしおお藩と改称しました。長昭は、安永2年(1773)に江戸神田の藩邸で生まれ、天明5年(1785)、病死した父の跡を継ぎ、12歳で藩主となりました。幼少期より学問を好んだ長昭は、寛政8年(1796)に藩校・日新館を設立して学問を奨励するなどし、仁正寺藩中興の祖と称されています。

また、長昭は学問のかたわら書物の収集に努め、当代を代表する蔵書家でもありました。文化5年(1808)には、その豊富な蔵書の中から宋・元の時代(960~1368)に刊行された「宋元版三十部」を厳選し、湯島聖堂へと献納しています。『そうはんとうしゅう』『そうはんしょうせんせいしゅう』は、この時に献納されたものを当館が受け継いだものです。

宋版東坡集

01重要文化財 そうはんとうしゅう

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重要文化財 『宋版東坡集』

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『東坡集』は、北宋の時代(960~1127)を代表する文人・しょく(1036~1101)の詩文集です。書名は、蘇軾の雅号である「とう居士こじ」にちなんだものです。

掲載資料は、『東坡集』として現存する最古の版本はんぽん(木版刷りの書物)で、南宋(1127~1176)の孝宗こうそう(在位1162~1189)の時代に、杭州こうしゅう(現在の浙江せっこう省)で刊行されたものといわれています。本来、『東坡集』は全40巻からなるものですが、17巻が欠け、現存するのは23巻全12冊です。夾版きょうばん(書物を保護する板)で包まれて保管されています。昭和31年(1956)、国の重要文化財に指定されました。

蘇軾

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作者の蘇軾(1036~1101)は、北宋のけいゆう3年(1036)、しゅうざん県(現在の四川省)に生まれました。あざなせん、雅号は東坡居士。蘇軾は、若い頃より文学の才能を高く評価されていました。また、父親のじゅん(1009~1066)や弟のてつ(1039~1112)も文学的に有名であり、3人あわせて「さん」と呼ばれています。なお、3人は「とうそうはちたい」(唐と宋王朝を代表する八人の文章家)にも名を連ねています。

蘇軾は、ゆう2年(1057)、「きょ」(官吏登用試験)に合格し、役人としての生活を始めます。やがて、同じ唐宋八大家の一人である王安石おうあんせき(1021~1086)が政治改革を行うと、蘇軾はその政策に反対し、二度の左遷を経験することになります。1度目は黄州こうしゅう(現在の湖北省)に、2度目は海南かいなんとう(現在の海南省)に左遷されます。海南島に流されてから6年、ようやく罪が許され、蘇軾は都に戻ることになりますが、帰路の途中、常州(現在の江蘇省)の地で、病没しました。享年66歳(数え年)でした。

『宋版東坡集』の蔵書印

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蔵書印とは、書物に押された印のことです。蔵書印を調べると、その書物の過去の所蔵者は誰か、どのようにして伝来したか、など重要な情報を得ることができます。自分の蔵書に捺印なついんするという習慣は、中国から伝わったものですが、日本ではそれが独自に発展し、多彩なデザインの蔵書印が生み出されました。蔵書印は、本来書物の所有者を示すためのものですが、中には印のデザイン、文字の書体に工夫を凝らしたり、その心情を印文に込めた人もいました。

『宋版東坡集』の蔵書印

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  1. ①「仁正侯長昭/黄雪書屋鑑/蔵図書之印」→市橋長昭の蔵書印。黄雪とは木犀もくせいの花の別称です。長昭は木犀を好み、下屋敷に木犀を植えて黄雪園と名付けました。
  2. ②「昌平坂/学問所」→寛政9年(1797)に開校された昌平坂学問所の蔵書印。
  3. ③「浅草文庫」→明治7年(1874)~明治14年(1881)に用いられた官立の図書館の蔵書印。その蔵書のほとんどを当館が受け継いでいます。
  4. ④「日本/政府/図書」→明治19年(1886)~昭和7年(1932)まで、当館の前身機関が使用した蔵書印。
  5. ⑤「内閣/文庫」→昭和8年(1933)から、当館の前身機関が使用した蔵書印。
  6. ⑥「顔氏家訓曰…」→この印を使用した人物が実在しないため、江戸時代の書誌学者・かりえきさいは、書物の価値を高めようと考えた商人が押した「いん」(偽物にせものの蔵書印)と推定しています。

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赤壁せきへき

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赤壁の賦は、後漢の建安13年(208)、曹操そうそうしゅうが、激戦を繰り広げた古戦場「赤壁」をうたった「賦」(一句の字数制限のない叙事的な韻文)です。北宋の元豊げんぽう5年(1082)7月16日、蘇軾は赤壁の地において船遊びをし、はるか昔に行われた曹操と周瑜の激戦に思いを馳せました。その時の想いを詠んだのが「赤壁の賦」で、曹操や周瑜への述懐からはじまり、左遷された自己の境遇を嘆き、その憂いを忘れるために自然を楽しむ自適の生活を送りたいと述べています。

『宋版東坡集』の跋文ばつぶん

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市橋長昭が、文化5年(1808)に湯島聖堂へと献納した「宋元版三十部」、そのすべてに「跋文」(書物の終わりに書きしるす文章)が付されています。

『東坡集』の第12冊末尾に付された文章には、「収集したものが散逸するのは道理である。書物を散逸させずに百年後の世の中に伝えるにはどうしたらよいか。(それには)湯島聖堂に書物を寄贈するのが最も良い。書物が末永く伝わること、それが私(長昭)の平素からの願いである」と記されています。

なお、文案は儒学者・佐藤一斎いっさい(1772~1859)が担当し、書は能書家・市河米庵いちかわべいあん(1779~1858)の手によるものです。

『宋版東坡集』のしき

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識語とは、書物に所蔵者など後世の人が書き加えた文字・文章をいいます。見返しや巻末などの余白に多く散見されます。『東坡集』の第1冊末尾に付された識語には、市橋長昭の鑑定が記されています。

本書は、もとは京都・西禅寺の蔵書でしたが、西禅寺が廃寺になった後、妙心寺大龍院の僧・嬾庵らんあんの蔵書となり、さらに市橋長昭が「ふしみずへい」というしょから購入した旨が記されています。

なお、「文化新元甲子」は文化元年(1804)のこと、「黄雪山人こうせつさんじん」は市橋長昭の雅号です。