江戸城大奥で働いていた女中の数は、将軍付だけで百数十人(ほかに将軍の妻に仕える御台所付の女中等も数十名)に達し、その仕事の内容もさまざまでした。上搆苳N寄(じょうろうおとしより 大奥女中の最高位)・御年寄(老中に匹敵する大奥の実力者)、御中掾iおちゅうろう 将軍や御台所の身辺の世話をする女中)、表使(おもてづかい 渉外担当)などから、雑用係の御半下(おはした)まで。それだけではありません。大奥では大奥女中の職制には入らない女性たちも、それぞれ重要な役割を担っていました。
今回は、将軍家の子女の出産と哺育に注目。将軍家御用達の「産婆」(助産師)、新生児に初めて乳を飲ませる御乳付(おちつけ 旗本の妻)、幼い若君姫君にお乳を提供する御乳持(おちもち 旗本御家人の妻)、そして将軍の子づくりの世話をする御伽坊主(おとぎぼうず)に関する記録を紹介します。
将軍の若君姫君が、日々手厚い医療を享受していたのは言うまでもありません。にもかかわらずその多くは驚くほど短命でした。早すぎる死。なぜそうなのか。将軍が奥医師たちに不満をあらわにする場面もありました。大奥の子育ては、御乳持の人選だけでなく、医療面でも問題を抱えていたようです。
女性と乳幼児たちの生活空間である「大奥」から、将軍が生活し執務する「奥」へ目を移しましょう。そこには側衆・小性・小納戸・奥坊主・奥儒者・奥医師など、奥勤務の者たちが勤務していました。将軍の身の回りの世話をする小性と小納戸の仕事は、さまざまです。給仕や入浴の世話などのほか、将軍(あるいは大御所、世子)が病に臥したときは、看病や介護の役も務めました。
将軍が上京参内したとき、将軍に密着して特殊な役目を果たした公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)と呼ばれる者もいます。実際に仕事をしたのは江戸初期の数回だけ。そのお仕事とは…。
幕臣の公私の行状を監視し、犯した罪を摘発するのは、目付(定員10名)の仕事。目付は、配下の徒目付・小人目付(各50名前後)等とともに、幕府の監察体制を支えていました。大目付(定員4、5名)は旗本の名誉職のひとつ。目付ほど監察官としての職務は明らかではありませんが、大名旗本の訴訟や審理が評定所で行われる際には、これに立ち合いました。
ここでは、藤枝外記の心中一件と佐野善左衛門の刃傷事件の記録から、大目付と目付の仕事の一端をのぞいてみましょう。
幕府の役職は大きく武官系の「番方」と文官系の「役方」に別れていましたが、番方だからといって、武術一辺倒で金銭感覚にうとかったわけではありません。
番方のひとつ先手鉄炮組では、すでに17世紀後期から、組の公金を信用できる先に貸し出す試みがなされていました。幕府から支給された公金を使い切るのではなく、これを利殖して後任者へ渡すことが公儀(幕府)のためであると考えたからです。
将軍の貴重な蔵書や徳川家に関する諸記録を収蔵する紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)は、4名から6名の書物奉行(御目見以上で若年寄支配)と15名前後の書物同心(御目見以下)によって管理されていました。
書物奉行の仕事は、書庫の管理、蔵書の内容調査、目録の改訂、そして曝書(虫干し)や修復によって蔵書の保存に努めること。なかにはみずから貴重書の複製本を作成した人もいます。
幕府は、紅葉山文庫の蔵書や幕府の重要な記録を保存するためにさまざまな対策を講じました。貴重書の修復や幕府日記の副本の作成など、記録保存の試みはとりわけ寛政期に顕著です。修復作業は書物同心が行うようになり、幕府日記の書写(副本作成)には小普請の御家人が用いられました。
安井(保井)算哲、のちの渋川春海が初代天文方に任命されて以来、編暦(暦の作成)と改暦の仕事は、代々幕府の天文方が担当するようになります。幕末までに天文方を務めたのは、渋川・^・西川・山路・吉田・奥村・高橋・足立の8家。世襲制ではありましたが、高度な専門的知識を要する仕事だけに、有能な人材を養子にする場合も多く、民間の学者を天文方に抜擢したケースもありました。
文化8年(1811)には、高橋景保(かげやす)の建議で天文方に蘭書の翻訳等を行う蕃書和解御用が設けられ、安政3年(1856)に蕃書調所が設置されるまで、天文方は洋学研究所としての役割も担いました。
旗本御家人の中には、幕府の役人としての職務を超えて才能を開花させた人もいます。漢詩・俳諧・狂歌・戯作等の文学、浄瑠璃や三味線等の芸能分野、あるいは園芸・本草学・博物学の世界で、彼らはそれぞれに好奇心と探究心を発揮し、豊饒な江戸文化に彩りを添えました。
今回の展示では、狂歌や小咄の作者として知られる木室卯雲、三味線の名人原武太夫、園芸の世界でこの人ありとされた水野忠暁を取り上げます。