[請求番号 220-0069]
書物同心が修復作業を行うようになった寛政3年(1781)にはまた、目付の中川勘三郎忠英(ただてる)らの建議で、幕府「御日記」(表右筆日記)の副本の作成も始められました。
「御日記」は寛永年間(1624―44)から残っていましたが、虫喰い等で保存状態が悪いうえ、副本が作成されていないため、火事で焼失すると、幕府の歴史を跡づける重要な記録が失われる恐れがあったのです。事態を憂慮した中川の建議を、同じく記録の保存に意欲的だった老中の松平定信が了承。「御貝役」(目付の配下で、陣貝を吹く役)2名と小普請(高3000石以下で非役の幕臣)8名、計10名の「手跡宜」(字が上手な)御家人が、「写物御用出役」として「御日記」の書写(副本作成)を担当することになりました。
展示資料の『小役人帳』には、事の経緯ばかりでなく、支給される手当金や弁当代、勤務時間、書写を行う場所、休憩所、あるいは「見出し」(索引)作成のことまで詳細に記されています。
展示資料は、全20冊。多聞櫓旧蔵。