[請求番号 218-0002]
幕臣の狂歌人といえば、まず大田南畝(1749―1823 名は覃。号は南畝のほか四方赤良、蜀山人など)の名が挙げられますが、南畝の先輩格に当たるのが、木室卯雲(きむろ・ぼううん)。小身とはいえ御目見以上の旗本(南畝は御目見以下の御家人)です。
木室卯雲(1714―83)、名は朝濤(ともなみ)。徒目付を務めたのち、宝暦6年(1756)に御目見以上となり、小普請方、広敷番頭(ひろしきばんがしら)を経て、天明3年(1783)に70歳で亡くなりました。
幕臣の間で彼の名を高からしめたのは、55歳のときに、昇進せず齢を重ねた我が身を自嘲して詠んだ狂歌。全身が灰黒色で額が紅色のバン(鷭)という鳥を、色黒で頭部が赤い自身と重ね合わせた「色黒く頭の赤きわれなれば 番の頭になりさうなもの」の一首が老中の耳に入り、広敷番頭(「番の頭」)に昇進したと評判になったのです。
幕府の人事を動かした狂歌の力。卯雲は狂歌だけでなく噺本(小咄集)の作者としても非凡な才能を発揮しました。彼の著で、安永元年(1772)に出版された『鹿の子餅』(かのこもち)は、江戸小咄の祖と評されています。
『奴師労之』は大田南畝の随筆で、文政4年(1821)成稿。展示資料は、『燕石十種』所収。