[請求番号 165-0049]
大目付は、初期には監察官の職務を果たしましたが、次第に江戸城内における大名の席次や殿中の礼法の取り締まり等がその主な役目となりました。
とはいえ重大な事件が起きたときは事情が異なります。
天明5年(1785)8月に4000石の旗本藤枝外記(ふじえだ・げき 名は教行)が新吉原の遊女と相対死(心中)した一件では、大目付の久松筑前守定ト(さだたか)が、町奉行の曲淵甲斐守景漸、目付の伊藤伊勢守忠移とともに事件の関係者や外記の家族を取り調べ、藤枝家の家禄没収と、外記の妻と母の「押込」(籠居)を申し渡しました。藤枝家側が外記の死骸を家来のものと偽って届けたことが厳しく咎められたのです。
『久松日記』は、久松定トが大目付を務めた天明元年(1781)から同5年までの公務日誌。定トは天明6年に68歳で亡くなりました。全21冊。
参考に展示したのは、『寛政重修諸家譜』巻1461。藤枝教行(外記)が8月14日に遊女を殺害して自害したこと。外記の妻が家来に勧められて虚偽を述べた罪で親族のもとに籠居させられたことなどが記されています。