31. 寛政暦書
(かんせいれきしょ)

[請求番号 特004-0012]

8代将軍徳川吉宗は、西洋の天文学の成果を取り入れた改暦に意欲的でしたが、吉宗の死後、宝暦5年(1755)から施行された宝暦暦は、貞享暦を若干修正したに止まり、施行40年で誤差が顕著になりました。

吉宗の遺志を継ぎ、西洋の天文学・暦学を採用して暦法を改良しようとした幕府は、寛政7年(1795)、大坂の天文学者麻田剛立(あさだ・ごうりゅう 1734―99)の門人高橋至時(たかはし・よしとき 1764―1804)を天文方に任命。至時は同門の間重富(はざま・しげとみ 1756―1816)ほかの協力を得て新暦(寛政暦)を作成しました(寛政10年から施行)。

麻田門下の高橋至時や間重富が主に研究したのは、清の天文台長を務めたケーグラー(中国名は戴進賢。ドイツ生まれのイエズス会士で、伝道のかたわら中国暦の改良に努めた)の『暦象考成後編』で、その結果、寛政暦は西洋の天文学を取り入れた画期的なものとなりました。

展示資料の『寛政暦書』は、天文方の渋川景佑(かげすけ)・山路諧孝(ゆきたか)・足立信頭が著した、寛政の改暦に関する暦学理論・観測記録・観測器具等の報告書。天保15年(1844)に『寛政暦書続録』(全5冊)とともに献上されました。

全35冊。紅葉山文庫旧蔵。

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