[請求番号 166-0477]
幕臣の行状や政務全般に監視の目を光らせる目付は、また切腹の検使(切腹が滞りなく執行されるよう監視し、見届ける役)も務めました。
天明4年(1784)3月24日、江戸城殿中で新番組の旗本、佐野善左衛門政言(さの・ぜんざえもん・まさこと 28歳)が、若年寄の田沼山城守意知(36歳)に斬り付ける事件が発生。佐野政言は大目付の松平対馬守忠郷によって組み留められ、田沼意知(たぬま・おきとも)は重傷を負い4月2日に絶命しました。
4月3日、佐野政言に切腹が申し渡され、小伝馬町の牢屋敷内の揚座敷(500石以下の旗本の未決囚の独房)の前で切腹執行。このとき検使を務めたのが目付の山川下総守貞幹(さだもと)でした。
このような場合は、切腹人が三方の上の木刀を手に取ろうと前かがみになったところを介錯人が斬首するのが定法でしたが、佐野政言は短刀(真剣)でみずから腹を切りたいと懇願。立ち合いの人々を当惑させます。
さて、山川貞幹はどうしたか。『田沼実秘録』(別名『遠相実録』)には、このとき彼が示した思慮深い対応が記されています。この話は、のちに『流芳録』(→展示資料14)にも採録されました。
展示資料は、全3冊。昌平坂学問所旧蔵。