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45. 国産電気メーカーの誕生(田中久重・藤岡市助)

国内有数の電気メーカー東芝の創業には、二人の発明家が関わっています。一人は、芝浦製作所を創業した田中久重、もう一人は、東京電気を創業した藤岡市助です。芝浦製作所と東京電気が昭和14年に合併し、東京芝浦電気株式会社として発足したのが、現在の株式会社東芝です。

田中久重(初代・1799―1881)とは、弓曳童子や万年時計等のカラクリで有名な「からくり儀右衛門」のことです。久重(初代)は明治6年、工部省の求めに応じて久留米から上京し、モールス信号機などを製作しました。明治8年には、銀座に田中商店(後の田中製造所)を創業して、電話機や報時器などの電信器機を製作しました。上京時すでに70歳を越えていた久重(初代)は明治14年に死去し、製造所の経営は、息子の久重(二代・1846―1905)が引き継ぎました。久重(二代)は、電気機械の製作に絞って事業を続け、明治26年からは芝浦製作所へと社名を変更し、明治42年には米国のゼネラル・エレクトリック社(GE社)と業務提携し、重電メーカーとして発展させました。

一方、藤岡市助(1857―1918)は、白熱電球の製造、エレベーターの設置、電車の運転などに成功した「電気の父」として知られています。工部大学校教授だった藤岡は、明治17年フィラデルフィア万博の視察の際エジソンと会見し、エジソンから国産の電気事業の必要性を指摘されました。エジソンの言葉に感銘をうけた藤岡は、帰国後教職を辞し、明治23年白熱電球を製造する「白熱舎」を設立しました。白熱舎は、明治32年社名を東京電気と改め、明治38年GE社と提携し、新たな技術を導入して電球の開発を進めました。こうした中から明治44年に開発されたのが、タングステン電球「マツダランプ」です。「マツダ」とは、ゾロアスター教の光の神「アウラ・マツダ」に由来し、明治43年に世界の有名電気メーカー間で定めたタングステン電球の統一商標です。

展示資料は、田中久重(二代)の事蹟調書と藤岡市助が勲七等に叙せられた際の文書です。

故 田中久重(東京府)
従七位工学博士藤岡市助叙勲ノ件
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