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第一部 内国勧業博覧会−明治初年の殖産興業−

日本と万国博覧会の関わりは、文久2年(1862)に開国交渉のため欧米に派遣された幕府の使節団が第二回ロンドン万国博覧会を視察したことに始まります。明治維新以後も、政府は、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会、明治9年のフィラデルフィア万国博覧会に積極的に参加しました。諸外国の博覧会に参加し、その有用性を実感した経験は、やがて殖産興業政策の一環として、万国博覧会をモデルに国内で博覧会を開催するという方向へと展開していきました。

内国勧業博覧会は、明治10年(1877)から36年(1903)までの間に東京で3回、京都・大阪で各1回ずつ開かれました。その目的は、外国の新技術の紹介と国内の技術交流により国内産業の発展を図るというものでした。博覧会で紹介された外国の新技術は、初め模倣や改良といった形で国内に移入され、その後それまでの日本の技術と融合し、新たな技術が産み出されました。ここでは第一回、第二回の内国勧業博覧会を取り上げます。明治の産業技術発展の黎明にあたるこの時期には、バラエティ豊かな発明品が多数出品されていました。

第一回内国勧業博覧会出品物「米国製風車」
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