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33. 釜石鉱山田中製鉄所

明治25年、農商務省技師野呂景義(1854―1923)は、岩手県の釜石鉱山を調査し、その結果を『釜石鉄山調査報告』にまとめました。釜石鉱山製鉄所は、明治13年官営工場として操業しましたが、十分な生産をあげられず明治16年に廃止されました。官営製鉄所の廃止の原因を野呂は、技術の未熟さや調査不足が招いた鉱山原料・高炉用木炭の不足、採掘区域の狭小さ、輸送の不便さ等により利益が上がらず、加えて国内の鉄需用の不足のために経営難に陥ったと指摘しました。

製鉄所はその後、鉄商であった田中長兵衛に払い下げられ、番頭の横山久太郎が経営を行う形で操業を再開しました。横山は、官営工場でお雇い外国人技師の下で働いていた日本人技術者を技術主任に抜擢し、官営時代の失敗を教訓に高炉の改良を重ねました。そして明治19年、試験操業49回目にして製銑に成功しました。これをうけ、田中は明治20年、釜石鉱山田中製鉄所を創設し、設備拡張を行うなどして生産量を上げ、明治38年には37,000トンの生産高を記録しました。その間、野呂は田中に乞われ製鉄所の顧問となり、大高炉の復旧及びコークスによる銑鉄生産を成功させるなど、生産量の増大に尽力しました。釜石鉱山は、日清、日露戦争による軍需を中心に規模を拡大し、昭和9年の製鉄大合同により日本製鉄に移管され、現在は新日本製鐵株式会社釜石製鉄所となっています。

釜石鉱山の製鉄技術は、人材・技術面で明治34年に設立された官営八幡製鉄所に活かされました。八幡製鉄所では、野呂による技術指導のほか、熟練工7名が釜石から派遣され、その操業に尽くしたのです。

釜石鉄山調査報告
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関連資料

釜石鉱山製鉄所

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