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16. 国産洋靴の製造(西村勝三)

明治初期の発明には、急速に文明開化する社会の姿を感じさせる発明品が多くみられますが、「洋靴」も文明開化の風俗を表すものの一つといえます。洋靴の製造は、明治3年3月旧佐倉藩士西村勝三(1836―1907)が築地に伊勢勝造靴場を開いたことに始まります。西村が洋靴の製造を始めたのは、兵部大輔大村益次郎に命じられたためといわれています。明治初年、近代的軍隊の創出に取り組んでいた大村は、軍隊用に洋靴を輸入しましたが、どれも日本人にはサイズが大きすぎて合わず、西村に日本人の足に合う洋靴の製造を依頼したのでした。西村は、築地の工場とともに、佐倉(現・千葉県佐倉市)に士族授産の靴工場「相済社」を開き、佐倉藩士を伝習生として靴の製造を行いました。相済社は明治30年代に解散しますが、伝習生の一人であった大塚岩次郎は学んだ製造技術を生かして大塚製靴(現・大塚製靴株式会社)を興しています。一方で、伊勢勝造靴場は、明治17年に「佐倉」から名前をとって桜組製靴と改称し、明治35年に日本製靴株式会社(現・リーガル・コーポレーション)になりました。

展示資料は、明治33年に西村が緑綬褒章を受章した際の文書と桜組製靴のカタログです。軍靴の製造からスタートした洋靴も、この頃には種類も増え、多様なタイプが販売されていることがわかります。また、見本図とともに、実物の皮の見本が貼付されています。

西村勝三ヘ緑綬褒章下賜ノ件
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