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29. 大阪紡績会社(山辺丈夫)

大阪紡績会社は、渋沢栄一(国立第一銀行)、藤田伝三郎(藤田財閥)といった東西の経済人の出資によって明治16年に興された紡績会社でした。経営に苦しんでいた他の紡績所と違い大阪紡績は操業当初から大きな利益を生み出しましたが、これは、その立ち上げに尽力した山辺丈夫の功績によります。展示資料は、明治35年山辺に緑綬褒章が授与された際の文書に添付されていた大阪紡績会社の工場の図面の一部です。

大阪紡績の構想は渋沢栄一によるものでした。愛知紡績所などの政府主導による紡績所の失敗は、規模の小ささ、日本の綿花と洋式機械の不適合、立地や動力の不適合、技術者の不足などにあると考えた渋沢は、ロンドンで経済学を学んでいた山辺に、構想中の紡績会社において技術指導及び会社運営を行うために、最新の紡績技術を学ぶよう依頼しました。渋沢の意向を受けた山辺は、マンチェスターの紡績工場で職工として働きながら、紡績技術、工場経営の一切を学びました。明治13年に帰国した山辺は、蒸気を動力としたインド綿用ミュール紡績機械等一万錘の導入による大規模な紡績工場を大阪の三軒家に建設しました。そして港に近いという立地を活かし、日本産ではなく中国産・インド産の輸入綿による紡績を採用し、昼夜二交代制の操業により大量生産を実現させました。このほかにも山辺は、英国の紡績技術書の翻訳をもとにした技術者用マニュアルを作成するなど技術者の育成につとめたほか、不熟練工でも扱いやすい米国のリング紡績機への切り替えなど経営手腕を発揮し、大阪紡績の発展を支えました。

山辺丈夫ヘ緑綬褒章下賜ノ件
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