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30. 三重紡績所(伊藤伝七)

三重紡績所は、政府からの貸し付けを受けた二千錘ミュール紡績機を設置した工場として明治13年に操業しましたが、水不足により水力紡績機の生産量が上がらず、経営に行き詰まりました。そこで創業者の伊藤伝七(10代・1852―1924)は、大阪紡績会社を成功させていた渋沢栄一に援助を願い出、明治19年三重紡績株式会社として再スタートしました。

三重紡績は、一万錘規模の工場を四日市に建設し、大阪紡績会社をモデルに、中国綿の採用による原料価格の抑制、昼夜交替制の導入、設備投資等の大規模な改革を行いました。また、輸入機械織機による魚網と綿布の製造に着手して利益を上げ、明治30年代には近隣の紡績工業を合併し、規模を拡大させました。そして大正3年大阪紡績会社と合併し、東洋紡績株式会社へと発展しました。

展示資料は、伊藤伝七が明治39年に緑綬褒章を受章した際の文書です。上申書からは、三重紡績が明治38年に綿糸と綿布で多額の利益を上げ、海外にも販路を広げていたことがわかります。このように明治期の繊維業は、明治末年には中国やインドからの輸入綿花を英国及び米国製の輸入機械により製紡、綿織物に加工して輸出していました。一方、在来の発明家たちによる力織機は、主に国内向けの綿布製造に使用され織物産業の発展を支えました。

伊藤伝七ヘ緑綬褒章下賜ノ件
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関連資料

東洋紡績株式会社 三軒家工場

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