企画展

平成25年度連続企画展第1回「公文書でみる落語のれきし」

平成25年度連続企画展第1回「公文書でみる落語のれきし」


【展示会】

概要

落語家のルーツは室町時代から戦国時代にかけ活躍したお伽衆だと考えられています。江戸時代にはいり世の中が平和になると、本業を別に持ちつつ神社の境内や目抜き通りなどで咄を披露する人があらわれました。その後、19世紀になると、いよいよ寄席で落語を披露するはなし家が登場します。こうして落語は庶民の楽しみとして人気を博し、寄席の数も急激に増えます。その後、天保の改革では幕府から抑圧を受けますが、老中水野忠邦の失脚とともに寄席の数は再び急増しました。
明治時代を迎えると、寄席の取締り規則が定められるなどし、その後も時代の影響を受け変化を重ね、現在にいたります。一方で、現在、落語は伝統芸能としても高く評価されており、これまで8代目桂文楽をはじめとして10名以上の落語家が紫綬褒章を受章しています。



主な展示資料


『醒睡笑』(せいすいしょう)
安楽庵策伝(あんらくあんさくでん/1554〜1642)は京都の誓願寺の住職を長くつとめ、茶人・文人としてもよく知られた人物です。策伝は笑話集を編纂し、寛永5年(1628)に京都所司代の板倉重宗(いたくらしげむね/1586〜1657)へ献じました。『醒睡笑』(せいすいしょう)と名付けられたこの本には、「平林」などの原話をふくめ1,000を超える咄が所収されています。



『鹿の巻筆』(しかのまきふで)
上方より少し遅れ、江戸にも咄が上手く人気を博した人物が登場しました。「江戸落語の祖」といわれる鹿野武左衛門(しかのぶざえもん/1649〜1699)です。本業が漆細工や漆器をつくる塗師(ぬし)だった武左衛門は、中橋広小路(現在の八重洲通りと中央通りの交差点あたり)で盛んに咄を披露しました。



 

『戯作六家撰』(けさくろっかせん)
「江戸落語中興の祖」といわれる烏亭焉馬(うていえんば/1743〜1822)の登場により、江戸の咄ブームは再び盛り上がります。大工の棟梁を本業とする焉馬は、洒落本や黄表紙の作品もある江戸戯作界の大家でした。焉馬は積極的に咄の会を開き、江戸落語の礎が築かれていきます。





『東京府寄席取締規則』
明治を迎えると、落語をめぐる状況も大きく変わりました。明治10年(1877)には「寄席取締規則」が定められ、寄席は認可制となりました。この規則では、寄席での「猥褻の講談」や「演劇類似の所作」が禁じられたほか、中入りのくじ売りも禁止されました。