帝国憲法下の主張

26.国体明徴に関する声明案

資00067100(件名1)

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戦前、金森徳次郎は法制局長官として天皇機関説事件の対応に当たっていました。

天皇機関説とは、天皇を法人としての国家の最高機関として捉え、親政を行うのではなく、政府機関の助言をききながら統治する仕組みを大日本帝国憲法の正統な解釈と考えた学説で、従来は立憲主義的統治の根拠として通説的な立場にありました。

しかし、東京帝国大学名誉教授・美濃部達吉の憲法学説(「天皇機関説」)に対して、昭和10(1935)年2月18日の貴族院で貴族院議員菊池武夫が「国体に対する緩慢なる謀叛むほん」であると非難し、政府に断固たる措置を求めたことから天皇機関説事件が始まります。国家主義団体や在郷軍人会、立憲政友会などが天皇機関説攻撃を繰り広げ、貴族院議員であった美濃部は議員を辞職することになりました。

政府は当初、学問上の問題は政治から切り離すという姿勢をとっていましたが、事態の収束のため軍部の要求を容れながら、8月3日と10月15日の2度にわたって「国体明徴こくたいめいちょうに関する声明」を出し事態の終息を図りました。

資料は、金森が自ら作成した第1次声明案に更に鉛筆書きで修正を加えたものです(8月3日に発表した内容)。資料一枚目の図は国のかたちを捉えて天皇と声明文にあった「万民一体」の関係を表現したものと考えられます。この言葉は軍部との折衝の過程で削除されますが、日本国憲法の国民統合の象徴としての天皇という考え方にも繋がるものでした。

国体明徴に関する声明

「天皇機関説事件」に際し、立憲政友会などの政党や軍部などの圧力を受けた岡田啓介内閣が事態の収拾のために2度にわたって発表した声明。昭和10(1935)年8月3日の第1次声明では、「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が邦国体の本義をあやまるもの」であるとしたが、その後の美濃部の姿勢や一木枢密院議長や金森法制局長官らに関する人事問題に関して在郷軍人会を中心とする軍部への圧力が収まらず、岡田内閣は同年10月15日の第2次声明において、一層強い調子で「天皇機関説」を「国体にもと」るものとしてその「芟除さんじょ」(取り除くという意味)を表明するに至った。これらの声明により、大日本帝国憲法の正統的な解釈でもあった立憲主義的な統治理念は全面的に否定されることになった。

27.私説の骨子(金森徳次郎)

資00068100(件名5)

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金森は、法制局長官として天皇機関説事件の対応に当たった一方、自身の著作である『帝国憲法要綱』も攻撃の対象とされていました。資料は帝国議会での追及に備えて作成した答弁材料と考えられます。

28.『帝国憲法要綱』(金森徳次郎著)

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金森は『帝国憲法要綱』(大正10(1921)年初版、昭和4(1929)年訂正版)において、憲法は国の本質的なかたち(国体)を動かし得るものではなく、明治22(1889)年の大日本帝国憲法の制定によっても、国の根本的性質は変わらなかったという解釈をとっており、この事件に際しても、仮に憲法の改正があっても国体は変わらないという立場を維持しています。