関門―枢密院

19.枢密院における内閣総理大臣説明要旨

資00172100(件名6)

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

昭和21(1946)年3月20日、幣原喜重郎総理は憲法改正案が枢密院に諮詢しじゅんされるに先立ち、草案要綱について非公式に説明を行いました。資料は、枢密院への説明要旨です。

幣原の説明は、GHQによる憲法草案の提示とこれに対する政府の対応と受入れの経緯、重要事項である国体と「戦争抛棄ほうき」についての自らの所見、極東委員会の設置など憲法改正を急ぐべき国際情勢について極めて率直に述べるものでした。

極東委員会(Far Eastern Commission, FEC)

日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関。昭和20(1945)年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3か国の外相会議で極東諮問委員会(FEAC)に代わり、日本の占領管理に関する機関として設置を決定。委員会は、11か国(米国・英国・中華民国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン)の代表で構成され、本部はワシントンに置かれた。委員会の決定は米国政府を通じて連合国軍最高司令官に指令として伝達されたが、決定に当たっては米・英・中・ソに拒否権が与えられていた。昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により消滅した。

20.枢密院委員会録

枢B00033100(件名6)

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

枢密院では審査委員会が昭和21(1946)年4月22日から合計11回開かれ、6月8日の本会議で可決されました。資料は、枢密院の会議録です。

ここで枢密顧問官であった美濃部達吉みのべたつきちは憲法改正手続について根本的な疑義を提起します。それは、「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」とある帝国憲法第73条の規定がポツダム宣言の受諾で無効になったと考えられること、廃止される枢密院や貴族院に付議し、国民の意思ではなく天皇の裁可で改正が成立することは矛盾であり、まずは憲法改正の手続法を作り、国民代表の発議で改正すべきであるというものでした。政府は、国民代表である帝国議会が自由に論議して修正もできることを認め、実質において民意を尊重すればよいという立場を示して理解を求めました。

21.枢密院会議筆記

枢D00962100

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

枢密院での審議は、昭和21(1946)年5月15日の第8回審査委員会で一応の終息をみましたが、5月22日に幣原内閣の総辞職があったため、これを機として、いったん枢密院への諮詢案は撤回し、それまでに委員会で現れた意見やGHQとの間で調整が行われた字句の訂正を取り入れ、再度諮詢されました。

枢密院での審議の結果、6月8日に天皇の臨御りんぎょのもと本会議が開かれました。資料は、本会議の筆記録です。審査委員長の審査報告の後、枢密顧問官の質疑を経て採決に付されます。憲法改正案は美濃部達吉を除く顧問官の賛成多数で可決されることになりました。

22.帝国憲法改正案を帝国議会の議に付するの件裁可書

類02956100(件名6)

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

枢密院を通過した帝国憲法改正案は、昭和21(1946)年6月25日に衆議院本会議に上程じょうていされ、28日に芦田均あしだひとしを委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託されました。7月1日から23日までの委員会審議の後、小委員会を設置して、各会派から提出された修正案の調整を行ないました。8月21日に帝国憲法改正案委員会でその共同修正案を可決し、24日に本会議を通過しました。

帝国憲法改正案は、8月26日に貴族院本会議に上程され、30日に安倍能成あべよししげを委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託されました。特別委員会は、8月31日から10月3日まで審議を行い、小委員会を設置するなどして修正点を取りまとめます。帝国憲法改正案は10月6日の貴族院本会議において修正されて、直ちに衆議院に回付、10月7日、衆議院本会議において可決され、両院の議決が確定しました。

資料は、10月29日付けの裁可書です。