Ⅰ新たな国のかたちの模索
昭和20(1945)年9月2日、日本は連合国に対する降伏文書に調印し、ポツダム宣言を受け入れました。その翌々日に召集された帝国議会の開院式に臨んで発せられた勅語は、終戦にともなう言語に絶する労苦を乗り越え、我が国が信義を果たす意思を世界に知らせ、「平和国家」を確立して人類の文化に貢献することを希求する、という従来に例のないものでした。
連合国側の思惑や国内の様々な要因を意識しながら、「平和国家」をどのようなかたちで実現していくのかは、戦後処理や戦災からの復興と並ぶ大きな課題だったのです。
可能性としての憲法改正
1.「ポツダム」宣言の受諾にともなう各省実行計画
纂03073100(件名7)
降伏文書の調印が済み、戦後処理がスタートした昭和20(1945)年9月11日、東久邇宮稔彦内閣総理大臣は閣議において「我々の前途はますます荊の道を分けて進まねばならないと思う、これと共に一方将来の建設の踏み切りをも準備しなければならないと思う」と発言し、我が国の再建に向けた12月の始めまでの施策の実行計画を各省において作成し、9月末までに報告するように通達しました。
資料には、9月11日の内閣総理大臣発言と、その後の各省からの報告が綴られています。各省の報告には労働組合法案(厚生省)などの戦後改革につながる施策も挙げられていますが、帝国憲法の改正については、ポツダム宣言に直接明示されたものではなかったこともあり、まだ具体的な課題として取り上げられてはいませんでした。
2.終戦と憲法
寄贈00870100
政府が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から次々と発せられる指令や覚書の処理に忙殺されるなか、内閣法制局ではあくまでも内輪の研究として憲法改正問題が議論されていました。
昭和20(1945)年9月18日の日付の入った「終戦と憲法」と題する文書は、当時、法制局書記官兼参事官であった井手成三が所蔵していたものです。「ポツダム宣言受諾にともない考慮を要すべきもの」として、憲法上の天皇の権限の処置などが論点としてあげられています。また、憲法改正は最低限にとどめ、解釈による運用の改善を図るといった政府の当初の基本的な姿勢がみられるほか、「改正発案」に「レフエレンダム」(国民投票制のこと)を加えるといった議論があったこともわかります。
連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers, GHQ/SCAP)
日本に対する占領統治を管理・実施した連合国の機関(本部は東京の第一生命館に置かれた)。1945年10月2日、米陸軍の太平洋方面の部隊を統括する米太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)と併設する形で設立。連合国軍最高司令官(SCAP)は、設立当初から51年4月11日までダグラス・マッカーサー、以後占領統治が終了するまではマシュー・リッジウェイ米陸軍中将が務めた。機構としては、発足当初はSCAPの下に参謀長、その下に副参謀長があり、参謀長直属の官房として物資調達部と4つの参謀部、副参謀長配下に9つの部局(天然資源局・民間通信局・経済科学局・法務局・民政局・統計資料局・民間諜報局・民間情報教育局・公衆衛生福祉局)が置かれて、占領統治が進むにつれて参謀長の官房部局と幕僚部の部局は組織改編が行われた。
占領統治の中核を担った部局は、民政局のほか、財閥解体・労働改革など経済民主化を推進した経済科学局、農地改革を推進した天然資源局、教育の民主化を推進した民間情報教育局、公職追放・政治犯釈放を担当した民間諜報局である。人員数は、48年の最盛時には文官3,850名を含む約6,000名、国務省資料によると民政局・経済科学局などの部局で合計4,739名であった。52年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により廃止された。
3.帝国憲法改正手続
資00021100(件名1)
政府として憲法改正問題を正式に取り上げたのは昭和20(1945)年10月9日に成立した幣原喜重郎内閣でしたが、これに先鞭をつけたのは内大臣府でした。
11日、前国務大臣近衛文麿が内大臣府御用掛を命じられ、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの意を受けて憲法改正の準備に入ったとの報道がなされます。これを受けて内閣官房は、先例のない帝国憲法の改正手続について検討を始めました。
資料の、内閣書記官の岩倉規夫が作成した検討案には、憲法の改正は国務に関わる事柄であるため、国務大臣による輔弼(君主の統治行為に助言すること)が必要であり、その立場にない近衛による草案はあくまでも政府の参考資料にとどまるとの見解が記されています。
内大臣府
天皇を側近として補佐し、御璽・国璽(天皇・国家の印)を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを担った内大臣を支える宮中の機関で、人民より天皇に奉呈する請願も扱った。内大臣は、明治18(1885)年の内閣制度創設に際して宮中に設置されたが、その職務や権限の及ぶ範囲は曖昧かつ抽象的な存在だった。大正時代、内大臣を務めていた桂太郎が内閣総理大臣に就任して内閣を組織したことについて、憲政擁護運動で批判を受け、内閣が総辞職するなど、政治への関与が時に批判の対象となることもあった。内大臣は昭和期には後継総理の決定に関与するなど強い影響力を持つようになっていたが、昭和20(1945)年11月24日に廃止された。