「憲法大臣」金森徳次郎とその周辺

帝国憲法の改正は第90回帝国議会(昭和21(1946)年5月16日召集、6月20日開会、10月11日閉会)で審議されました。ここで憲法担当の国務大臣として答弁を担当したのが、かつて天皇機関説事件によって政府の要職を追われた金森徳次郎でした。金森は国体の変革と主権の所在をめぐる微妙な質問を「水は流れても川は流れない」といった警句に満ちた答弁で乗り切ります。

再び歴史の表舞台にあらわれた金森の使命は、GHQとの苦難に満ちた折衝の末に生まれつつあった日本国憲法が示す戦後像と、これまで我が国が歩んできた歴史と国のかたちを、日本人自らの意思によって論議し調和させることにあったといえるでしょう。

ことばの改革

23.憲法改正草案

平14内閣00004100(件名16)

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

昭和21(1946)年3月6日に発表された憲法改正草案は、あくまでも要綱の形式によるものであったため、内閣嘱託の金森徳次郎をはじめ、法制局のスタッフがこれを条文化する作業を進めていました。文語体から口語体(文章口語)への文体の変更については、作家の山本有三(のちに貴族院議員に勅選ちょくせん)らの建議も踏まえながら進められました。

実は、金森は戦前にもカタカナ混じりで難解であった法令形式の改善を提案し、これが行政改革の一環として進められたことがありました。法令の形式的な美しさよりも、国民が理解し、利用するものであることを重視した金森の理想は、戦後の日本国憲法で実現したのです。

資料は、4月5日の閣議に付された憲法改正草案です。

24.憲法改正草案の文体等の形式に関する説明

類02964100(件名8)

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

憲法改正草案の文体に口語体が採用されたことに伴い、昭和21(1946)年4月18日、「各官庁における文書及び新に制定(全文改正を含む)する法令の文体、用語、用字、句読点等は、今回発表された憲法改正草案の例にならうこととし、できるだけその平易化に努める」ことが決定されます。資料は、4月17日に法制局がこの件に関して説明した際の文書です。

これに応じて、6月17日に「官庁用語を平易にする標準に関する件」を次官会議で申し合わせ、さらに官庁用語便覧編集協議会を開催して、同年12月「公文用語の手びき」が編集されました。これらにより、我が国の法令や公文書はその姿を大きく変えていくことになりました。

25.金森徳次郎の国務大臣への就任

別00230100(件名40)

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

帝国議会開幕の前日にあたる昭和21(1946)年6月19日、内閣嘱託として憲法改正案の立案を援助してきた金森徳次郎は、第1次吉田茂内閣の閣僚として迎えられ、憲法担当の国務大臣となりました。資料は、その際の裁可書です。

金森が大臣に就任した経緯については必ずしも判然としませんが、法制局長官も経験した金森の法令に対する知識に加え、戦前の天皇機関説事件で官途かんとを辞した経験から公職追放のおそれが低かったことや、閣内からの幣原の推挙があったなどと言われています。

金森徳次郎1886~1959

東京帝国大学卒業後、大蔵省を経て大正3(1914)年に法制局に入り、同13(1924)年12月法制局第一部長、昭和9(1934)年7月法制局長官となるが、翌年の「天皇機関説事件」で著書『帝国憲法要綱』に、機関説的な記述があるとして批判され、昭和11(1936)年1月に退官。戦後、昭和21(1946)年2月に貴族院議員に勅選され、内閣嘱託を経て同年6月に第1次吉田茂内閣で憲法担当の国務大臣に就任。のち、昭和23(1948)年から昭和34(1959)年まで、国立国会図書館の初代館長を務めた。