埼玉県地域史料保存活用連絡協議会(埼史協)40年のあゆみ

埼玉県立文書館 新井 浩文

はじめに
 埼玉県保存活用連絡協議会(略称「埼史協」以下、同)は、2014年で発足40周年を迎えた。5月23日には、埼玉会館において記念シンポジウムと式典開催が開催された。
 記念シンポジウムでは、埼史協副会長の工藤博氏(入間市博物館)から、埼史協40年のあゆみに関する講演会があった。また、記念式典には国立公文書館の加藤館長に御出席を賜り、御祝辞を頂戴したほか(写真1)、現役以外のOBも多数詰めかけ、大盛況のうちに終了した(写真2)。御協力を頂いた関係者の方々にここに改めて感謝申し上げたい。

写真1 加藤国立公文書館長による祝辞

写真1 加藤国立公文書館長による祝辞

写真2 参加者全員での記念撮影

写真2 参加者全員での記念撮影

 全国には、この埼史協のような道府県を単位とした史料協議会が複数存在するが、近年その多くが市町村合併にともなう市町村の激減により、存続が困難となっている。筆者は、今から十数年前に「都道府県史料協の成果と課題」と題して、全国の動向を紹介したことがある(拙稿「都道府県史料協の成果と課題―埼玉県地域史料保存活用連絡協議会の最近の活動から―」『文書館紀要』12、1999年 )。その後、昨年、機会があって千葉県史料保存利用機関連絡協議会の総会で拙稿段階と今の現状について報告させていただく機会があった。その結果、当時あった団体が、平成の市町村合併を経て、解散や自然消滅により、減っている事実が判明した。そこで、現在も活動を続けている団体の主な特徴を挙げると、①事業が豊富で会員相互の情報交換が盛ん、②設立の趣旨が明確、③事務局を県の文書館に置いている、という点が明らかになった(『千葉史協だより』40号参照)。この3つの特徴から埼史協が、なぜここまで続いたのか?について、その歴史を通しながら検証してみることにしたい。

1.埼史協のあゆみ(市町村史編さんの時代) 19741984
 まず、埼史協が誕生した背景について述べてみたい。その設立は、埼玉県立文書館の歴史と大きく関わっている。同館は、1969年に県立図書館内に設置された、山口・京都・東京に続いて全国で4番目の文書館である。折しも、その年に日本学術会議による「歴史資料保存法の制定について」の勧告があり、その2年後には国立公文書館も設置され、地方自治体でも資料館・文書館の設立の動きが始まる機運が盛んとなった時期と重なる。また、その頃は「地方の時代」と呼ばれ、市町村史の編纂事業が県内各地でスタートする時期とも重なっていた。まさに、地方史の研究ブーム到来の中、埼史協は1974年9月5日に誕生したのである。
 ちなみに、その5ヶ月前の4月5日に結成発起の打合せ会議が発起人となる浦和(現さいたま市)・大宮(同)・越谷・妻沼(現熊谷市)4市町を中心に文書館で行われた。発起人はいずれも、市町村史編纂中の自治体であり、その名称は現在と異なり、「埼玉県市町村史編さん連絡協議会」といった。目的は「県内市町村史編さん」に関する相互の連絡と協調をはかり、もって市町村史編さん事業の健全なる運営と歴史諸資料及び情報の交換に寄与すること」であることからも明白なように、発足時の埼史協は、県内の市町村史編さんに関する事務担当者のための集まりとしてスタートした。
 当時の主な活動は、市町村史編さんのための協議会という性格もあり、編さん事業の推進やその技術の向上を目的とした事業が中心となっていたが、1976年には、編さんに活用することを目的とした調査ではあったが、県内市町村における行政文書の保存状況調査も実施されており、従来、新聞史料が主体となっていた市町村史の近現代編とは異なる自治体史を目指していたことが窺える。

第1~5次専門研究委員会報告書(上段:日本語版 下段:韓国語版)

第1~5次専門研究委員会報告書(上段:日本語版 下段:韓国語版)

2.埼史協のあゆみ(編さんから史料保存へ) 19851994
 1980年代もなかばになると、県内市町村史編さん事業も終焉を迎える自治体が相次ぎ、編さん事業後の組織について問題が浮上した。そこで会では「市町村史編さんから地域文書館へ」をスローガンとした活動を深めるため、1985年6月に専門研究委員会を発足させ、第1分科会「行政文書保存の現況と地域文書館」、第2分科会「文書館の機能」、第3分科会「史料の収集と整理・活用」に分かれて、会員から委員を募り検討を行った。その成果をまとめた報告書が『地域文書館の設立に向けて』で、現在でも地域文書館に関する入門書として広く読み継がれている。その後、専門研究委員会は、テーマを変えながら、第2次(1987~1988)行政文書の収集と整理(報告書『同名』)、第3次(1989~1991)「諸家文書の収集と整理」(報告書『同名』)、第4次(1992~1993)地域史料の保存と管理(報告書『同名』)、第5次(1994~1997)地域史料の検索と活用(報告書『同名』)と続き、途中休会期もあったが第7次専門研究委員会まで活動を続いている。なお、この間に「公文書館法」が成立したこともあり、1991年には会の名称も「市町村史編さん」連絡協議会から現在の「地域史料保存活用」連絡協議会へと変更された。埼史協は、これまでの「市町村史編さん」という枠組みから、地域史料として公文書の収集・保存・活用を図り、市町村文書館の設立を目指すための協議会へと大きな転換をはかったのである。

地域史料保存箱

地域史料保存箱

3.埼史協のあゆみ(防災と平成の市町村大合併) 19952004
 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生した。この震災を通して、埼史協でも防災対策が検討課題となった。折しも同年7月10日には、旧庄和町の史料保存宅から火災が発生し、被災した文書史料を真空凍結乾燥法によって救助する初の試みが行われた。また、県内の災害対策として、埼史協オリジナルの「地域史料保存箱」を災害供出用として県内の東西南北4カ所の資料館や文書館等に配備した。なお、この災害供出用保存箱は、県内だけでなく全国の被災地にも送られており、1999年の東北地方豪雨や、2004年の新潟県中越地震の際に供出したほか、2011年の東日本大震災の際にも岩手県立博物館へ500箱を供出するなど被災現場からの要請に応じて協力を行っている。
 その後、埼史協では国の法案や施策とともに、関心が公文書の保存管理へと移っていく。まず、2001年4月には情報公開法が施行されたことにより、公文書保存が情報公開法と車の両輪の関係であることから重要視されるに至り、その動きと前後した平成の市町村合併に伴う公文書等の保存対策が急務となった。この問題は、2001年5月の旧浦和・大宮・与野の3市合併によるさいたま市誕生に伴い、合併市町村間の公文書引継ぎへの関心が一挙に高まった。埼史協では、2003年5月30日付けで県内市町村に対して、「市町村合併時における公文書等の保存について」の要請文を配布、さらに2004年6月11日には再度「市町村合併時における公文書等の保存について」要請文を配布し、合併文書の散逸防止を呼びかけるとともに、研修会を開催するなどして、関係者への喚起をうながした。

4.埼史協のあゆみ(公文書管理法と防災対策再考) 20052014
 2005年になると、市町村合併も一段落したところで、どのような文書を歴史的公文書として残すべきかの評価・選別に関する具体的なガイドラインを作成する必要が生じた。このため、2007年に第6次専門研究委員会が設置され、2008年には、報告書『歴史的公文書収集の現状と評価選別』が出されている。翌2009年には公文書管理法が公布されたこともあり、本報告書は全史料協HPの実務情報リンクバンクに掲載される等、全国的にも大きな反響があった。
 2011年3月11日に起こった東日本大震災によって、再び埼史協では災害時の文書資料等の救済対策について検討すべきとの意見がだされ、翌2012年に第7次専門研究委員会が発足し、埼史協の40周年に合わせる形で、報告書『地域史料の防災対策』 が刊行された(前掲全史料協HPの実務情報リンクバンク所収)。また、2012年7月には、災害時の文書資料等の救済対策として、岩手県釜石市において津波による被災公文書の復旧作業を中心とする研修会を行った。

今後の課題
 以上、雑駁な報告となってしまったが、埼史協40年のあゆみについて紹介してきた。この他近年では、史料の保存活用に関する埼史協の活動を市民にも理解してもらうため「国際アーカイブズの日記念講演会」を開催している。今後の大きな課題は、近年ようやく増えてきた新規採用職員をはじめとする次世代への埼史協ノウハウの継承である。史料保存にとって大事なことは、組織体制はもちろんのことであるが、最後は人的ネットワークが物を言うと感じている。これは、一人で悩みを抱え込まずに、何でも相談できる場所を目指した活動を当初から実践してきた埼史協ならではの結論であるといってとも過言ではなかろう。こうした取組は、地域史料の所在確認調査母体や、やがて災害時におけるネットワークとしても機能する可能性を持っている。今後のさらなる発展に期待して、本稿を閉じることにしたい。