国立公文書館所蔵資料展「近代日本と徳島のあゆみ」を開催して

徳島県立文書館 金原 祐樹

国立公文書館展 入口(徳島県立博物館企画展示室)

はじめに

 平成27年3月7日(土)から3月19日(木)までの間、徳島県立博物館1階の企画展示室にて、国立公文書館所蔵資料展「近代日本と徳島のあゆみ」展(以下「本展示」)が開催された。主催は、国立公文書館、徳島県立博物館、徳島県立文書館の3館による共催とした。本稿では、国立公文書館による第3回の公募に応募し、第4回となる国立公文書館所蔵資料展の形で開かれた「本展示」の経緯や概要を紹介してみたいと思う。
 年度末の3月と、まだ肌寒い、しかも何かとあわただしい時期に、実質11日間という短い会期が重なり来場者数は危ぶまれたが、初日の展示解説には約60人が集まり、会期中には1,537人(1日平均約140人)の来場があった。この数字は、事前の行き届いたポスター・チラシの送付やマスコミ報道による後押しがあったためであろう。

 

1. 公募・準備

「国立公文書館所蔵展 近代日本と徳島のあゆみ」リーフレット(表面)

 平成25年12月、国立公文書館より館外展示会開催の公募があった。しかし、徳島県立文書館(以下「当館」)館内には狭い展示室(29㎡)しかなく、100㎡以上という公募基準に対応できるはずもなかった。しかし当館は、徳島県文化の森総合公園という、図書館・博物館・近代美術館・文書館・二十一世紀館・鳥居龍蔵記念博物館という6つの県立の文化施設が集まった公園の中にあり、その中にはいくつかの企画展示室や貸し会場がある。その中で二十一世紀館の多目的活動室(約260㎡)というホールか、博物館の企画展示室(300㎡)であれば可能ではないかと考え、日程等の調整にあたった。展示品が公文書という固定した企画展ということもあり、博物館の企画展示室の方が良いだろうということで会場を絞り込み、日程の調整に入ったが、博物館では数年前から企画展示の日程を定めており、結局、26年度も押し詰まった、平成27年3月7日(土)から3月19日(木)の期間しか押さえることができなかった。しかし、展示期間内の受付職員の確保等の目処も立ち、博物館より開催会場の図面・展示ケースの説明資料などを揃えていただき、展示開催は可能と判断して期限ギリギリで応募したところ、平成26年2月10日付の文書で、運良く開催が決まった。
 早速3月3日には国立公文書館担当者に遠路来徳していただき、国立公文書館、徳島県立博物館、徳島県立文書館の三者で最初の打ち合わせを行い、展示会場や看板の付設場所等について下見を行った。この時、県立博物館は担当として松永友和学芸員を決めていただき、この後3館の担当3名で、細々した打ち合わせはメールを通じて行うこととなった。また、この打ち合わせの中で展示に際して小冊子を作成する予算がないことを知った。展示を行うだけでは来場者は展示品を眺めるだけで終わってしまうと考え、記憶を助ける記録として、共催各館担当者に原稿を寄せていただき、徳島県立文書館の予算の中で用意をすることとした。
 準備はまず展示品の選定から始まった。国立公文書館にはこれまでの展示で積み重ねたノウハウがあり、中心となる明治維新から戦後昭和期までの「近現代日本のあゆみ」の流れを一覧することのできる公文書や御署名原本など展示の核となる資料が決められていた。この流れに共催する各館が所蔵する徳島に関する資料をどのように組み合わせていくのかを決めて行くことになった。
 6月には国立公文書館担当から3月の打ち合わせを元にして、出品予定資料の一覧が出された。国立公文書館の所蔵資料は、ほぼ全てがホームページのデーターベースできちんと検索ができるため、検索をした上でさらに追加で出品をお願いすることもあった。展示資料がほぼ決定した頃、9月17日に、国立公文書館の担当者3名に来ていただき、関係者が揃って、今後のスケジュールや展示会のメインタイトルについて打ち合わせを行った。タイトルについては、ストレートに国立公文書館の所蔵する資料を中心にした展示であることをわかっていただくため、「国立公文書館所蔵資料展」を正式タイトルとし、「近代日本と徳島のあゆみ」をサブタイトル的に扱うことを決めた。
 広報活動の内ポスター・チラシについては、国立公文書館で作成し、徳島側から送付先のリストをお渡しして、国立公文書館から直接お送りいただいた。ポスターは展示資料とキャプションがモザイク状に並べられている斬新なもので、周囲からは「わかりやすい」との声もいただいた。
 12月に入ると、本格的に展示の際に配る当館が担当した小冊子の作成と展示キャプションの作成を行い始めた。時間が限られた中でメールを中心に作業が行われる内に平成27年1月に入るとポスター・チラシが順次送付され、2月末には何とか小冊子も完成し、ついに3月4日を迎え、国立公文書館から展示品が会場に運び込まれた。徳島県立博物館の松永学芸員に展示会場設備の準備などにきちんと対応していただき、搬入業者の力もあって短い期間に展示作業は終わり、開幕当日を迎えることとなった。

御署名原本保存箱(国立公文書館所蔵)

2. 展示内容

 「本展示」では、国立公文書館が所蔵する史料の魅力を知っていただくため、明治維新以来の近現代における日本のあゆみを記録してきた「御署名原本」「太政類典」「公文録」「公文類聚」などの現物の公文書を柱に、徳島の事件やできごとが記録されてきた公文書、さらに徳島県立博物館と徳島県立文書館が持つ関係資料を含めて展示資料が決められた。
 特に、国の重要文化財となっている、「公文録および公文附属の図」計6点が、徳島で初めて公開されること。その「公文録」の中に、明治3年(1871)明治初期の徳島を揺るがした庚午事変(稲田騒動)の根本資料である「公文録 徳島騒擾始末」4冊が含まれていること。自由民権運動の先駆けとなり、名東県貫族小室信夫が名を連ねる「民撰議院設立建白書」の原本が展示されること。戦時中の徳島空襲について約1ヶ月後に徳島検事局がまとめ、司法大臣宛てに送った「徳島空襲被害報告書」の原本が展示されることなど、話題の多い展示となった。
 「本展示」の内容は、明治維新期の戊辰戦争に関わり今回の展示でシンボル的に扱われた「錦の御旗」の画図を始めとして23のパートに分れていた。昭和60年(1985)に開通した大鳴門架橋に関する公文書まで、時代を追うことのできる年表も作成・展示され、表題どおり「近代日本と徳島のあゆみ」を通覧できる構成であった。また、最後の徳島藩主である蜂須賀茂韶、徳島で晩年を過ごしたポルトガル人の作家モラエス、徳島出身の歴史学者である鳥居龍蔵と喜田貞吉、明治期徳島の有力な産業であった竹製のものさしや秤の工場を経営していた藤村九平という5人の先人に関わるコーナーや、洪水に苦しんだ吉野川や藍・蚕糸などの産業に関するコーナーも置かれ、国立公文書館からは約60点が出品された。その内11のパートでは、徳島県立文書館・徳島県立博物館から国立公文書館の所蔵資料に対応する展示資料・写真を提供したことによって、展示品の総点数は約90点となり、立体的な構成の展示となった。

ぬいぐるみ「けんけつちゃん」

 さらに、御署名原本を保存・管理するために特注で作られた桐製の保存箱とその仕様書や、国立公文書館法など国立公文書館の根拠法の史料、厚生労働省から国立公文書館に移管された「けんけつ(献血)ちゃん」というぬいぐるみを国の作成した史料として保存してきたことに到るまで、国立公文書館の果たしてきた、さらに今後も果たすべき役割について説明をするコーナーも置かれた。
 全ての公文書が、徳島をそして日本を大きく動かすことになった歴史資料ばかりであり、一見地味な史料ではあるが、その原本が果たした役割や意義は計り知れない史料が徳島にやってきたのである。

展示解説風景 展示解説者は水野公文書専門官

3. 展示の広報と会期内

 開幕当日の朝、入館の状況はまばらな状況であった。開幕当日は雨で肌寒く出足が少し鈍いように感じられた。しかし、展示前日の3月6日、徳島新聞の文化面で内容も含め「本展示」展示品の内容も含め大きく取り上げられ、午後に国立公文書館担当職員による展示解説があることが報じられていたことにより、午後2時から行われた展示解説には朝方の心配を吹き払うように続々と人が集まり、約60人が耳を傾けることになった。これも、博物館担当者によるマスコミ各社への訪問活動などが功を奏したものと思われる。
 開幕当日、徳島新聞朝刊の社会面にも展示品の一つである「徳島大空襲の被害報告書」の記事が掲載された。これは、徳島地方裁判所の検事正が空襲の約一ヶ月後に司法大臣へ宛てた報告書で、これまでほとんど皆無とされてきた徳島大空襲の貴重な記録であることが紹介された。さらに同新聞では7日の夕刊でも展示の開幕を知らせる記事を掲載していただいた。
 期間中は初日、2日目と雨となり、また10日(火)には雪がちらつくほど肌寒い日となったが、開会後に取材を受けていたNHK徳島放送局および四国放送による放映が13日(金)に行われ、その後は順調に入館者も推移した。
 11日(水)には、当館で公文書保存・管理講座を開催し、岡山県立記録資料館の定兼学館長に講演をしていただき、その後で講座の一環として展示の簡単な解説をおこなった。また、翌12日(木)には国立公文書館 加藤丈夫館長の表敬訪問を受けた。
 展示後、この企画展を取材した徳島新聞の尾野益大記者は、展示に含まれていた明治初年の徳島県の変遷について触発され、明治4年(1871)の廃藩置県後、「徳島県」「名東県」「高知県」と変遷し、淡路の帰属をめぐって揺れ動き、明治13年(1880)に現在の「徳島県」となった経緯に着目して、3月25日から27日に3回に渡る記事を「「徳島」の履歴書」という表題で掲載された。今後、こうした公文書などを利用した徳島の近現代史の研究にさらに光が当たっていくことを期待したい。

4. 展示を振り返って

 「本展示」では、入り口において来場者のほとんどの方に小冊子とともにアンケートを配布した。1,537人の来場者の内419枚(27.3%)という高い回答率を得ることができた。この高い回答率一つを見ても、来場した方の関心の高さを読み取ることができよう。まず、「意見・要望」を見ると、またこのような展示を開催して欲しい(5名)、徳島県に関する史料をもう少し見たかった(4名)、個別のテーマについてもっと掘り下げた内容で見てみたい(2名)などポジティブな内容が多かった。また、公文書資料の弱点と言える、文字が小さく読みにくい(2名)という意見は、キャプションの文字をなるべく大きく設定したからか、思いのほか少なかったように思う。さらに、広報が足りない(3名)、期間を長くして欲しい(1名)という意見は、良い展示だからこそきちんと広報するべきであり、じっくり見る機会が得たいから期間の延長が必要という声だろうと解釈し、これもポジティブに考えたい。当館の業務の中で、公文書など近現代史の史料は取り付きにくく、展示には不向きではないかという漠然とした思いがあったが、展示のやり方を工夫することによって可能性があることを知ることができた。
 また、国立公文書館の知名度を聞いた質問では、来館したことがある、と答えた方が10%、名称を知っていた、と答えた方は50%を越えた。「本展示」を積極的に見に来られた方々とはいえ「公文書館」という言葉がこれだけ市民権を得てきていることはとても心強い結果ではないだろうか。
 「本展示」は、国立公文書館が行う館外展示であり、資料選定やパネル作成、実際の展示などのほとんどは国立公文書館の主導で行われた。また、徳島県立博物館の企画展示室というきちんとした会場を提供していただいたため、国指定重要文化財を始めとした、多くの原本史料を徳島に受け入れることが可能となった。今回の経験は、当館にとって恵まれた条件の下に行われたが、公文書を核とした近現代資料の展示についても、他館との連携についても、今後積極的に行うべきだということを確信するに至った。
 最後に、こうした貴重な機会を与えていただいた、国立公文書館および徳島県立博物館の方々、「本展示」に来館していただいた多くの方々に深く感謝申し上げたい。