国立公文書館 統括公文書専門官室
公文書専門員 長岡 智子
1.はじめに
ユネスコ・バンコク事務所(以下「バンコク事務所」という。)は、2022年12月7日に、「サブリージョナル研修―保存修復の応用技術 “紙の記録遺産への水損被害:対応と復旧”」(以下「本研修」という。)をオンライン形式で開催した[1]。国立公文書館(以下「当館」という。)は、本研修の企画への助言、研修講師の派遣等により、バンコク事務所に協力を行った。本稿では、当館が行った協力を中心に、本研修について報告する。
2.研修の対象、目的等
バンコク事務所等がまとめた「Memory of the World (MoW): State of Preservation Report for Southeast Asia 2020(2020東南アジアにおける「世界の記憶」保存状態報告書)」[2]により、同地域内では保存修復の応用技術に関する研修のニーズが高いことが確認された。このような背景のもと、本研修は、東南アジア地域所在のユネスコ「世界の記憶」(以下「MoW」という。)国際登録記録遺産の保存管理担当者を主な対象とし、以下の目的のために開催された。
3.研修の開催
3.1 受講者
受講者の募集は、バンコク事務所から東南アジア域内のMoW国際登録記録遺産を管理する機関等に対して行われ、下表のとおり、域外を含む、10か国14の機関等から23名が受講した。
国 | 機関等 |
---|---|
ブルネイ・ダルサラーム | ブルネイ・ダルサラーム国立公文書館 (ブルネイ博物館局) |
カンボジア | カンボジア国立公文書館 | カンボジア農村開発省 |
エジプト | エジプト博物館 |
ファイユーム大学考古学部 | |
インド | バマート |
イタリア | アガ・カーン文化信託 | マレーシア | マレーシア国立公文書館 |
ミャンマー | ミャンマーの記録遺産を救う会 |
フィリピン | パンガシナン州政府パンガシナン学研究センター |
フィリピン国立博物館イロイロ分館 | |
タイ | タイ国立公文書館 | ベトナム | クアンナム省博物館 | ラムドン省博物館 (ダラット) |
3.2 受講者による自己学習等
本研修の受講に先立ち、受講者は自己学習とレポート作成を行った。
自己学習は、保存修復の技術や考え方、災害からの復旧や防災について、受講者の理解を深めるためのものであり、当館は、そのために必要な教材を用意した。教材は、主に、当館で実施しているアーカイブズ研修の教材等をもとにした保存修復技術に関する初任者及び上級者向けテキスト、水損資料修復の実践的マニュアル、日本における被災公文書対応の実施状況、防災や救済・復旧のための仕組み作りに関する資料等からなる。
また、受講者によるレポートは、所属する機関における資料保存や災害対策に関する課題等をまとめたものである。当館は、受講者が所属する機関が抱える課題等を事前に把握し、オンライン研修のプログラム構成を行った。
3.3 オンライン研修
3.3.1 概要
本研修は、2022年12月7日に、オンライン形式により開催された。開会挨拶、MoWアジア太平洋地域委員会(MOWCAP)の活動紹介、本研修の趣旨説明に続き、第1・第2セッション、最後に総括セッションが行われた。第1・第2セッションでは、各3件、計5機関からの報告(ブルネイ・ダルサラーム国立公文書館からの報告は2件)と、それらを受けた日本側講師からのフィードバックがなされた。講師は、青木睦国文学研究資料館准教授(当時)と当館職員が務め、各セッションの進行も当館職員が担った。
時間 | |
---|---|
11:30-11:40 | 開会挨拶 ○青柳 茂(ユネスコ・バンコク事務所長、ユネスコ・アジア太平洋地域教育局) ○山谷英之(当館理事) |
11:40-11:50 | アジア太平洋地域におけるユネスコ「世界の記憶」プログラム ○芳賀満(「世界の記憶」アジア太平洋地域委員会(MOWCAP)副議長) |
11:50-12:00 | プログラムの目的について(趣旨と進行の説明) ○梅原康嗣(当館統括公文書専門官) |
12:00-13:35 | 第1セッション ●司会 梅原康嗣 ●発表1 「コレクションの保存と災害対応に関する具体的な問題点」 ○Mohammad Ali bin Awang Haji Tundak(ブルネイ・ダルサラーム国立公文書館) ●専門家フィードバック ○青木睦(国文学研究資料館准教授) ○寺澤正直(当館業務課課長補佐(保存・利用担当)) ●発表2 「ブルネイ国立公文書館の保存・修復部門」 ○Muhammad Adam bin Ramlee(ブルネイ・ダルサラーム国立公文書館) ●専門家フィードバック ○青木睦、寺澤正直 ●発表3 「水害にあった記録遺産を保護するために」 ○Pawida Somwong、Athiphan Phachanda、Laongtien Nopkhuntod(タイ国立公文書館) ●専門家フィードバック ○青木睦、寺澤正直 ●ディスカッション(20分) |
13:35-14:35 | 昼休憩 |
14:35-16:10 | 第2セッション ●司会 梅原康嗣 ●発表4 「水害を受けた公文書の救援活動」 ○Maimunah binti Osman、Qahera binti Alian、Muhd Syazeen bin Suhaili(マレーシア国立公文書館) ●専門家フィードバック ○青木睦、寺澤正直 ●発表5 「考古学・国立博物館における記録遺産の保存と修復のケーススタディー」 ○Aye Mi Sein、Chaw Su Su Hlaing、Wai Phyar Soe(ミャンマーの記録遺産を救う会) ●専門家フィードバック ○青木睦、寺澤正直 ●発表6 「サブリージョナル研修 保存修復の応用技術 紙の記録遺産への水損被害:対応と復旧」 ○Rasha Ahmed Elsaid Shaheen(エジプト博物館)<代読> ●専門家フィードバック ○青木睦、寺澤正直 ●ディスカッション(20分) |
16:10-16:20 | 休憩 |
16:20-17:20 | 総括セッション | 17:20-17:30 | 閉会挨拶 ○Linh Anh Moreau(ユネスコ・バンコク事務所コミュニケーション・情報ユニット) |
肩書は開催当時のもの
3.3.2 受講者による課題等の報告
第1セッションでは、ブルネイ、タイ、第2セッションでは、マレーシア、ミャンマー、エジプトの受講者から報告があった。
ブルネイ・ダルサラーム国立公文書館からは、過去に実施した書庫や排水設備の補修工事の経過、現在、保存修復で注意している点等について報告があった。タイ国立公文書館の報告では書庫内の空調設備からの漏水による水損被害とその対応の実例が示された。
マレーシア国立公文書館からは2021年末に首都クアラルンプールを含む複数の州にわたって発生した大規模な洪水被害の後のレスキュー活動に関する報告がなされた。ミャンマーについては、「ミャンマーの記録遺産を救う会」代表である元国立博物館幹部から、ミャンマー国内のMoW国際登録記録遺産、中でも国立博物館所蔵のガラス乾板資料の保存に関する課題が報告された。最後に、エジプト博物館からは、同博物館の所蔵資料のうち、水の被害と虫の被害の状況に関する報告があった[3]。
3.3.3 ディスカッション
各セッションの後半では、講師からアドバイス等を述べ、受講者全員で意見交換を行った。
まず、専門的な意見交換の出発点として、国際標準や一般的なルールを踏まえることの重要性が確認された。保存施設に必要な要件等に関する国際的な標準や原則(例:修復における原形保存の原則)をもとに、各自でできること、又はできないことは何か、自らの位置を確認していくプロセスが必要であるとされた。このようにして、指標を遵守するだけではなく、自らの環境に当てはめて実行可能なことから実践していくという指標の使い方が示された。
次に、具体的なアドバイスとして、保存施設の管理についていくつかのアドバイスが与えられた。まず、保守作業には、アーキビストと施設管理担当部局と外部の専門業者という、異なる専門的視点や知見をもつ三者の連携が重要であるとの指摘があった。また、保存上の問題が発生した際には写真による記録化を行うこと、各館の報告から事故後の対策は適切に行われていることが確認できるので、次のステップとして防災措置の強化が求められる、その観点から点検を重視すべき、とのアドバイスがあった。そのために、施設点検のチェックポイントを細かく定めて(たとえば外装の場合は、窓枠やドアまで)一覧表で管理するという実践例が示された。また、点検については、タイの事例のような問題への対策として、書庫内の状態を目視・体感することが大切であるという観点から、温湿度管理を機械計測に頼りすぎず、清掃のような日常の作業等を通して定期的かつできるだけ頻繁に書庫に入ることがリスク管理に繋がるという提案があった。
さらに、より技術的なアドバイスとして、高温多湿環境で、結露等を含む湿気対策には、除湿器に加えてサーキュレーターやファンを使った乾燥が経済的であること、また、水損の処置に用いる乾燥材として、シリカゲルに加えて珪藻土も有効であることなどが述べられた。珪藻土については受講者の関心が高く、板状にしたものを建物内(廊下等、書庫以外のエリア)の高湿度の場所に設置し、湿度を吸着するという方法が考えられるが、適切な使用が求められる等、詳細な説明がなされた。
その一方で、ミャンマーの報告は現在の同国の政治状況にともなう困難さを参加者全体で共有する機会となった。また、マレーシア国立公文書館が全職員を動員し、64もの被災機関に直接入る形で、率先してレスキューに当たった事例報告は、組織的対応力の高さや迅速性、日ごろからの準備など、当館の関係者も含め、学ぶところが多かった。
4.おわりに
資料の保存修復についてオンライン形式による研修に協力することは、当館にとっても初めての経験であったが、各機関が抱える個別の問題を集中的にディスカッションしたことで、各機関に共通する点も確認できた。こうしたことの積み重ねが、域内全体のレベル向上に繋がり、東南アジアにおける記録遺産の保存管理に資するものと考えられる。
〔注〕
[1] 本研修は、当初、2020年にバンコク(タイ)で開催が予定されていたが、新型コロナウィルス感染症の世界的な拡大により延期され、2022年12月にオンライン形式で開催された。
[2] 本研修は、日本政府信託基金(JFIT: Japanese Funds-in-Trust)を使用したユネスコのプロジェクト「東南アジアの危機に瀕した記録遺産の追跡調査と保存のための能力構築」の一環に位置付けられる。同プロジェクトは、主に東南アジアの記憶機関に対する支援、特に記録遺産の追跡調査(モニタリング)と、保存のための能力向上に資することを目的として計画された。今回のサブリージョナル研修の他に、追跡調査のパイロットケースとして、東南アジア域内のMoW国際登録案件の現状調査が実施された。調査はユネスコ・バンコク事務所が2020年から21年にかけて、東南アジアのMoW国際登録記録遺産の所蔵機関を対象に実施し、30件の記録遺産のうち28件分について回答を得た。各機関で支援を必要としている分野等に関する設問もあり、結果が報告書(英文)にまとめられ、公表されている。
https://bangkok.unesco.org/sites/default/files/assets/article/Communication%20and%20Information/files/Survey%20Report_25042021_compressed.pdf (2023年4月13日アクセス)
[3] エジプトについては、当日の回線の不調から受講者自身の参加が叶わず、バンコク事務所のリンアン・モロー氏がレポートを代読した。