公文書からみた沖縄振興50年Ⅱ~「癒しの島」の創生~

国立公文書館
公文書アドバイザー 槌谷 裕司

1.はじめに
  前号では、沖縄の日本復帰のときに「沖縄を平和の島とする」ことなどを表明した閣議決定文書(政府声明)に触れながら、沖縄振興の方向の原点を確認した。本稿では、その具体策・「沖縄の経済開発の起爆剤」としても期待された沖縄国際海洋博覧会について、国立公文書館・沖縄復帰50周年記念特別展の展示文書などから、先人たちの沖縄振興にかけた思いと挑戦の足跡をたどってみたい。
  沖縄海洋博については、第1次オイルショックの影響などもあり、入場者数が目標の450万人に対し約349万人にとどまり、「興行的には失敗」であったともいわれる。また、「列島改造」ブームの中で、本土資本によるホテルなどの建設ラッシュや地場産業の圧迫、地価高騰を招いたほか、イベント終了後は深刻な「海洋博不況」に陥ったなど当時の残念な記憶とともに語られることが多い。
  しかしながら、海洋博の沖縄誘致に際し交わされた日琉対話や「基本構想」等に盛り込まれた経済開発戦略、その後の展開が沖縄ひいてはわが国の経済社会に及ぼした効果などを中長期のスパンでながめ、沖縄振興の現状と課題を改めて今日的視点で考察してみることも有益ではなかろうか。

2.海洋博の沖縄誘致とその意義
  1975年(昭和50年)開催の沖縄海洋博は、72年5月の沖縄復帰を待って、博覧会国際事務局(BIE)理事会によって、その実施が正式決定された。
  海洋をテーマとした国際博覧会(特別博)の構想があることは、70年以前から知られていた[1]が、これを沖縄の復帰を記念する事業として実施するよう望む声が日琉の経済界を中心に高まった。特に当時の本土側の沖縄ブームや世界的な「海は地球最後のフロンティア」意識も手伝って、その動きは活発化した。
  まず、これにまつわる経過を記録した日琉両政府文書からみてみよう。

≪琉球政府による要請≫
  1969年11月の日米共同声明により、沖縄の日本復帰が決まると、年が明けた70年早々には、琉球政府の屋良朝苗行政主席自らが率先し、軍雇用者離職後の職場開拓、地域・経済開発の観点から、本土企業誘致に向けて精力的に動きだす。屋良日誌をみると、松下電器産業の工場視察や鹿島灘開発計画に関し茨城県知事との意見交換に赴く姿が活き活きとした筆致で記されており、基地に依存しない自立経済構築の取組への本気度がひしひしと伝わってくる。
  ついで、3月には大阪に入りし、万博会場を見学。屋良メモ[2]には、「世界人類の遊園地」「人類のお祭り」と評する文言が残っている。また、開会式では、参加各国の美しい万博ガールが色とりどりの服装で入場行進するのを見て、屋良は、人種、思想、宗教の違いを乗りこえた「人類共通の平和行事」との強烈な印象を受け、「万博に巨額の資財を投じたとしても世界平和の創造に役立つのであれば意義はある」との感慨をもったようだ。さらに、日本のテーマ館には国力の大きさを感じ、「沖縄の建て直し等何でもないはずだ」とも記している。
  この万博の会期中、日琉の経済人からなる沖縄経済振興懇談会(第5回、以下「沖経懇」という。)が大阪で開催され、屋良もこれに出席。沖縄経済振興の方策の一つとして、海洋博の沖縄開催および企業誘致の促進について協議した。
  8月に入ると、地元沖縄でも、海洋博の沖縄開催への期待がふくらみ、主席上京の折、琉球政府として誘致要請するよう陳情が行われ、14日の屋良日誌には、これを「ひき受けた」ことが記されている。
  翌8月15日、屋良は、東京の武道館で行われた全国戦没者追悼式に出席した後、山中貞則総理府総務長官との昼食の際に、海洋博の誘致をはじめとする復帰に関わるいくつかの懸案事項について意見交換を行った。このとき、海洋博については、「時期は復帰後を想定して了解を得た。」と屋良メモに記されている。これを受けて、琉球政府が作成したとみられる日本政府あての正式な要請文書[3]の内容は次のようなものであった。(図表1参照)

【図表1 要請書(1970年10月12日付け)抜粋】
 10 国際海洋開発博覧会の沖縄での開催について
 国際海洋開発博覧会を1973年[ママ]に開催する予定となつています。
同博覧会は、沖縄のもつ自然的・地理的条件に最も適した事業であり、変則的な基地依存経済からの脱却を目ざす沖縄の経済、社会開発のための大きな推進力になるものと思われます。
 特に、この海洋博を開催する事によつて、公共投資の促進が図られ更にこれに随伴する関連事業投資が誘発されるとともに観光施設、社会施設等産業基盤の整備拡充が大きく期待されます。
 よつて、この事業が沖縄で開催されるよう強く要請いたします。

  この要請文書をみるかぎり、琉球政府側が海洋博の沖縄開催に求めたものは、日本復帰を祝う人類の「平和の祭典」としての意義もさることながら、むしろこれを契機として、「新生沖縄」の社会開発、取り分け、日本の「南の玄関」にふさわしい交通体系の構築や収益力・雇用力が高い第二次産業への経済構造転換を支える事業投資やインフラ整備などを短期間のうちに呼び込むことに主なねらいがあったといえよう。これは、琉球政府が、その前月に、「ミスター全総」と呼ばれた下河辺淳の助言等も得て策定した「長期経済開発計画」(長計)における「新ネットワークの形成」構想などの方向にも沿うものであった。
  また、64年の東京オリンピックなどの国家的イベントに際し、これと連動して、高速道路、新幹線をはじめとするインフラの整備や産業振興、地域活性化・雇用創出が加速したという本土における成功体験と無縁ではない。
さらに、10月23日、那覇市で開催された沖経懇の「海洋博および企業誘致分科会」は、日琉両政府に対し、75年を目途に海洋博の沖縄開催を実現するための具体的措置を講ずるよう要請することなどを共同声明として採択した[4]。

≪沖縄で海洋博を・・・さまざまな思い≫
  海洋博を沖縄で行う意義等については、復帰の前年の1971年に入り、3月29日に行われた第6回沖経懇の論議が参考になる。このとき、沖縄側からは、「日本の海洋開発及び地域開発の先導的事業」とすること、及び「大規模な総合海洋開発機構と大型レジャー基地」の建設を目的とする考えが示された。他方、海洋博のマスタープランの作成に協力した三井グループは、海洋博について、沖縄本島と離島、先島の観光開発、経済・社会開発の起爆剤として、その投資効果が広い地域に及び、住民の生活基盤や地場産業の振興、あわせて日本の海洋研究・海洋産業の場となるよう考えたいとした。このように、本土企業側は、早い段階から、公共投資によるインフラ整備を前提としつつ、沖縄全域における「観光開発」などの事業性に着目し、これを産業化する戦略をもっていたことが分かる[5]。
  この第6回沖経懇では、沖縄側を代表して国場幸太郎(琉球商工会議所会頭)が、国務大臣を長とする沖縄開発庁設置の要望を表明した。その趣旨は、多大な政府資金や民間資金を要する沖縄の経済開発を効果的に推進するためには、沖縄開発の司令塔機能を閣僚が担う中央行政機関を新たに設けるとともに、現地でこれを執行する下部機関についても、各省にまたがる広範な分野にわたる直轄事業や許認可権限を一体的に持ち、「横串」機能を発揮できるタイプのブロック機関とすることが肝要であると考えたからであろう。この「開発庁方式」の導入については、同年9月、日本政府の復帰対策要綱第三次分(閣議決定)において方向付けがなされ、過去に北海道開発で取り入れられたものよりも強力でユニークな装置としての沖縄開発庁・沖縄総合事務局体制が導入されることとなった。
  海洋博を沖縄のどこで開催するかも重要だ。72年1月、琉球政府は、数ある候補地の中から、八重岳の麓、伊江島タッチューを眺望し、風光明媚であるものの最も開発が遅れた本部半島を内定した。宮里松正副主席(当時)は、これを日本政府側に伝えた際に佐藤政権の閣僚との間で次のようなやりとりがあったと証言する[6]。
  (田中角栄通産大臣)「副主席は、それならば海洋博のときに沖縄県の全県を開発してくれという意味かい。」
  私(宮里)が「そのとおりです」と言うと、(田中通産大臣)「わかった。沖縄側がそういう意向であるならば、政府の窓口は総理府の山中(貞則)君だから、山中君に異存がなければ、わしにも異存がない。山中君にそう伝えてくれ。」
  この話を宮里から聞いた山中長官は、その場で佐藤総理に電話すると、総理は、「沖縄復帰を記念しての国際行事だ。金で済むことなら、地元の要求は百パーセント入れてみたらどうか」と言われた、というものである。
  佐藤政権は、64年の発足時から、政治理念として「寛容と調和」を掲げ、日本の伝統を重んじる立場から、占領改革の行き過ぎには批判的で、引揚者問題など戦後未処理の諸問題に積極的に取り組み、実績を残す一方で、「平和共存」という国際的な価値観との「調和」を尊重した[7]。この開催地をめぐる対応も、戦後、本土が高度経済成長を遂げ、国力を伸長させる一方で、長きにわたり軍事優先の米国統治の下におかれた沖縄との間で社会的ひずみが広がっていること等を踏まえ、国が真の独立を果たす機会に、国内の地域格差の是正と極東の海域のリバランスを図る高度な判断を政治の役割として躊躇なく行ったものと理解できよう。

3.平和で豊かな海洋都市・沖縄の建設に向けて
  琉球政府からの正式要請を受けた日本政府は、海洋博の開催手続きを進め、1972年6月29日には、博覧会を主催する沖縄国際海洋博覧会協会(同年2月設立。会長・大浜信泉元早稲田大学総長)が「基本構想」[8]を取りまとめた。
  同構想では、沖縄の美しい海を生かしつつ、復帰間もない沖縄の広域的開発に資する役割をもった博覧会とすることが提言された。
  具体的には、海洋博の「基本的性格」として、
⑴ 海洋をテーマとする世界ではじめての国際博覧会であること、
⑵ 沖縄で行なわれる博覧会であること、
⑶ 博覧会の成果が長期的に、しかも周辺へ発展した姿で継承される必然的性格をもつこと、を挙げるとともに、これに取り組む基本方針を示した。
  ⑴については、人類に残された「最大のフロンティア」として、世界の諸国民が「海の望ましい未来」を感じ取り、相互理解の下に平和に貢献することができるようにすること、
  ⑵については、国民的財産である沖縄の美しい海と自然の保存、
  そして、⑶については、海洋博を沖縄で行う意義として、①海洋博そのままの姿での後利用 ②周辺の計画的広域開発 ③公共投資による基盤整備の3点が、相互依存関係にあり、これらを併行して実現することが肝要であるとしている。
  佐藤総理は、同構想が世に出る前の6月17日の時点で退陣表明を行っているが、実は、これに先立つ海洋博カウントダウン千日に当たる6月5日、あたかも置き土産のように「内閣総理大臣談話」[9]を閣議決定している。(図表2)
  この談話は、復帰の日の政府声明に盛り込まれた「平和で豊かな沖縄」建設に向けたプロジェクト宣言の意味を持つとともに、近く協会から公表される基本構想を現政権のうちに裏書きする意思を示した政策文書ともいえよう。
  その「基本構想」のねらいは、上にみるように、沖縄の日本復帰の祝祭イベントに止まらず、将来にわたり「海」を舞台とした交流と交易により世界の平和と繁栄に貢献していく「海洋都市・沖縄」の基盤づくりにあった。(図表2)

沖縄国際海洋博覧会開催前千日に際しての内閣総理大臣談話
(1972年6月2日閣議決定) ※抜粋・下線筆者

  「昭和50年に沖縄、本部半島で行われる沖縄国際海洋博覧会は、世界ではじめての海洋をテーマとする特別博覧会であり、海洋にかかわる産業、文化等の各分野において、日本民族の英知と活力を世界に問う絶好の機会であるとともに、広く世界の人々が相集い、海について、その望ましい未来像を高く掲げる祭典であります。
  この博覧会は、沖縄の本土復帰を記念する祭典として、平和で豊かな沖縄の建設に大きく貢献するものであり、わが国に対する国際的な理解を一層深めることができるものと確信いたします。


(画像)沖縄県公文書館所蔵・海洋博起工式で鍬入れする大濱信泉氏と小宮山重四郎氏1973.3.1

(画像)沖縄県公文書館所蔵・海洋博起工式で鍬入れする大濱信泉氏と小宮山重四郎氏1973.3.1

4.沖縄海洋博のコンセプト・・・「癒しの島」
  1970年の大阪万博に続きこの沖縄海洋博の仕掛け人としても活躍したことで知られる作家の堺屋太一(本名・池口小太郎氏、2019年没)は、復帰のとき、沖縄総合事務局の通商産業部企画調整課長として赴任し、沖縄振興に直接携わった。
  その堺屋が本土在勤中に推進した大阪万博には、77の国々が参加し、そのテーマ(お題)は、「人類の進歩と調和」であった。そして、イベントの成否を左右する「コンセプト」(何を見せるのか)は何かといえば、日本が戦後四半世紀を経て、高度経済成長を成し遂げ、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、「規格大量生産社会」を実現したことを世界に披露するということにあったという。
  こうした象徴的な意義を持つイベントが成功したことを契機として、自動車やカラーテレビが世界市場に向けて輸出され、日本は更に大発展したのである[10]。
  これに対し、「海、その望ましい未来」をテーマとする沖縄海洋博のコンセプトとは何であったのだろうか。
  堺屋は、後年、自著の中で、今日の経済社会は、近代工業社会における「物を造る」営みや商業・通信などの「価値を移す」営みを経て、働く人、住む人、稼ぐ人、買う人など、人々を楽しませ歓ばせるといった「人を呼ぶ」営みにシフトしているという鋭い洞察を示した。昨今のSNS文化に端的にみられるように「モノの豊かさ」よりも「満足の大きいことが人間の幸せだ」という発想だ。
  「人を呼ぶ」営みのうち代表的なものに観光がある。これに不可欠なものは、何であろうか。もちろん、四方を海に囲まれた外洋離島の沖縄では、空港、港湾、道路、水資源や観光施設などは、供給力=サポーティング・ストラクチャーを担うものとして極めて重要であるが、その前に、需要を生み出す「あれがあるからそこへ行きたい」という“アトラクティブス”が何よりも不可欠だという。
  堺屋は、沖縄海洋博のコンセプトを明確に語っていないが、この国際イベントを契機として、人々を歓ばせ幸せにする非日常的な空間や時間を創り出す取組=沖縄特有の“アトラクティブス”を追求した。いうなれば「癒しの島」の創生だ。
  具体的には、珊瑚礁に囲まれた透明度の高い沖縄の海のイメージアップ、琉球舞踊などの伝統芸能、「暖かい沖縄」をイメージさせるプロ野球キャンプ誘致、ショッピングなどの観光資源の「創造」である。このため、本土企業や地域社会が主体となって、「現場力」を発揮してこれに取り組み、沖縄発の情報発信を行うよう求めたのである。そのヒントとなったのは、戦前、亜熱帯農業と海軍基地の島にすぎなかったハワイを別次元の一大観光地に仕立て上げた観光プロデュース力である。ハワイアンのリズムやムームー・ファッション、フラダンス、ダイヤモンドヘッドと名付けた絶景の開発などがその例だ。
  実は、この堺屋の取組の背後には、佐藤総理からのある指示があったという。
  沖縄の日本復帰に当たり、通産本省(当時)から沖縄総合事務局に赴任するよう内示を受けた堺屋が、72年4月末、公邸で佐藤総理に面会。「総理は、御自身が取り返された沖縄が、将来どうなれば成功とお考えですか」と堺屋が訊ねると、佐藤は、「沖縄の人口を減らすな」と短く答えた[11]。その背景には、沖縄より早く復帰した奄美諸島が劇的な人口流出に見舞われ、沖縄についても、巷間そのような予測がなされていたという事情もあったようだ。
  戦後日本の高度経済成長に寄与した理由の一つに、「東京一極集中」政策があるといわれる。しかし、特定の地域を振興しようとすると、こうした政策に基づく様々な仕組みが壁ともなり得る。そこで、堺屋は、これを乗り越えるには、地域が主体となって創造性を発揮し、情報発信を行うことが成功のカギとなる「観光開発」しかないと考え、沖縄で開催する海洋博覧会を契機にこれを打ち出し、沖縄を訪れる観光客の数を10倍にしようとしたという。
  その「観光開発」は、日琉両政府が策定した各種開発計画の中でどのように位置付けられているのだろうか。ここでその推移をみてみると、70年9月に琉球政府が策定した長計では「観光面の経済開発・発展への期待」とやや抽象的な表現であるが、海洋博の基本構想が策定された時期をはさんで、72年10月の新全総(改訂版)では「産業・観光開発による沖縄の新たな発展基盤の形成」、同年12月の沖縄振興開発計画では「国民的な保健休養・観光レクリェーション地域として開発整備」へと短期間のうちにプロジェクトが明確化され、これに関連した高速道路、空港・港湾をはじめとする各種交通インフラや国営公園の整備などの事業が、同計画に基づき集中的に展開されていった様子が見て取れる。(図表3)
  こうした海洋博の成果は、いうまでもなく、その後の首里城復元や美ら海水族館など沖縄の個性ある“アトラクティブス”の開発へと継承されていく。

5.むすび
  琉球政府副主席(当時)の立場で海洋博の沖縄開催や経済開発を主導した宮里松正は、「(今にして思うと海洋博は)その後の沖縄経済の方向付けに役立ったばかりではなくて、今のリゾート産業の基礎をつくったことは間違いないと思いますね。」[12]と振り返る。
  また、堺屋の回想によれば、この「観光開発」に関しては、全国でもユニークな新組織「沖縄総合事務局」内において、さしたる権限争議もなく、また、宮里が副知事を務める新生沖縄県からも全面支援を得て、様々な仕掛けに存分に取り組むことができたという。
  そして、沖縄海洋博そのものについては、人々を楽しませ歓ばせる観光産業の起爆剤としての効果は大きく、海洋博が終ったあとも沖縄の観光客数はそれ以前よりも高水準を維持し、やがて猛烈に増加するとともに、沖縄の現在の人口は復帰当時よりも50万人以上増加していることなどを指摘し、「成功であった」と自己評価している[13]。(図表4)

(図表4)沖縄県の人口推移と入域観光客数1970-2015

(図表4)沖縄県の人口推移と入域観光客数1970-2015

  昨今、良く取り上げられるDX(デジタル・トランスフォーメーション)とは、産業の生産性を劇的に高める方策の一つとして知られるが、その本質は、人間の課題を解決するために、その手段としてデジタル技術やビッグデータを用い、全く新しい発想で根本的な経営革新に取り組むことにある。
  海洋博は、今から半世紀も前に企画された国際イベントであるが、まず、「海」という亜熱帯の沖縄に最もふさわしいテーマを生かし、「どうしたら住む人、訪れる人を歓ばせ幸せにすることができるのか」という、人間本位の課題設定を行った。そして、「観光開発」を切り口に、ハード・ソフト両面から取り組み、「人を呼ぶ」非日常の空間や時間を創出しつつ、沖縄を“癒しの島”に変身(トランスフォーム)させることに成功した。いうなれば「OX」(オキナワ・トランスフォーメーション)だ。これに誘発された人々の往来や交易の高まりが、更なる需要を生み、今日の沖縄では、中距離の航空物流やLCC機材のリペア、セントラル・キッチンの産業化などに波及。雇用の開発や定住・交流人口の増加に役立っている。
  沖縄の日本復帰後、第1次オイルショックの洗礼を受け、数々の経済危機や国際情勢の変動を経験し、わが国全体が人口減少と成長力の停滞に悩む今日、「自立経済」を目指した沖縄の取組は、かえって日本の地域振興を先導する役割を担っているようにもみえる。先行き、経済社会のデジタル化の進展やポスト・コロナの時代におけるサプライチェーンの再編、リモートを取り入れた生活様式の変化など新たな潮流も見受けられる。これに適応した「OX」を進め、どのように「沖縄力」を高め、地域社会の繁栄と日本の国力の増進に貢献していくのか。これが復帰50年を迎えた今日の沖縄に問われているのではないだろうか。

〔注〕
*(独)国立公文書館・公文書アドバイザー、早稲田大学 招聘研究員、沖縄国際大学 特別研究員
[1] 1969年7月、大阪万博を軌道に乗せた堺屋太一は、沖縄視察の船旅団体を仕立て、「1975年に沖縄で海洋をテーマとした国際博覧会を開催しよう」と提案、一行(小宮山重四郎、岡本太郎等)の賛成を得た。同年8月には通産省(当時)の新政策に沖縄海洋博が加えられ、12月の予算折衝では秘かに調査費がついたとされる。この提案について、「佐藤栄作総理大臣も大賛成」したという。
1970年1月4日、沖縄海洋博について日経新聞が報道。堺屋がリークしたという。
堺屋太一(2012)『人を呼ぶ法則』(幻冬舎新書)pp.107-108
[2] 沖縄県公文書館所蔵文書(1970)「万博を見ての所感」屋良朝苗日誌・メモ13 0000057218
[3] 沖縄県公文書館所蔵文書(1970)「愛知外務大臣に対する要請書」琉球政府総務局渉外広報部渉外課R00001194B
[4] (公財)沖縄協会所蔵文書(1970)「沖縄経済振興懇談会 海洋博・企業誘致分科会議事録」 907-0009-5735 pp.50-51
[5] 国立国会図書館所蔵文書(1971)「沖縄経済振興懇談会議事録 第6回」DC134-9 pp.136-137
[6] (公財)沖縄協会(1996)『本土復帰を前にした沖縄の社会情勢と政府の復帰施策に関する調査報告書』 902-0029 8610 pp.89-90
[7] 槌谷裕司(2021)「日本の『戦後処理問題』と和解」早稲田大学国際和解学研究所HP
http://www.prj-wakai.com/essay/2223/
[8] 国立公文書館所蔵文書(1972)『沖縄国際海洋博覧会基本構想』 平23経研03060100
[9] 国立公文書館所蔵文書(1972)「沖縄国際海洋博覧会開催前千日に際しての内閣総理大臣談話」平11総01744100
[10] 堺屋太一(2017)「大阪よ、ふたたび日本の中心たれ」 (婦人画報)
https://www.fujingaho.jp/culture/interview-celebrity/a60937/sakaiyataichi-20180219/
[11] 前掲・堺屋太一(2012) p117
[12] 前掲・(公財)沖縄協会(1996) p101
[13] 堺屋太一(2015)「沖縄海洋博覧会は成功だったか」(アエラ・ドット) 
https://dot.asahi.com/column/sengo70/2015110200057.html?page=1

※本稿は、『建設情報誌しまたてぃNo.102(2022年10月発行)』の掲載記事を転載したものである。