公文書館資料から見る復帰50年~基地の中の北谷町~

北谷町公文書館
館長 太田 守男

はじめに
  1945年の終戦から77年、1972年の日本本土復帰から50年を経てもなお駐留する米軍基地は、戦後の復興をはじめ、北谷町ちゃたんちょうのまちづくりの大きな障壁として横たわり続けている。
  本稿では、基地の変遷、基地問題の現状、町の取り組み等をまとめた「基地と北谷町」等を参考に戦後から現在に至る北谷町のまちづくりと基地に関する経緯を述べることとする。

1.戦前の北谷
  近世期における北谷(現嘉手納町含む)は、田75町3反(74.8ha)、畑1,529町3反(1,516ha)、山林32町歩(31.7ha)の本島内でも豊かな田畑を有し、中頭地域で産する材木、砂糖、米等を海路により那覇へ搬出する比謝川の良港をそなえ中頭地域の拠点として製糖工場が建設され、県営鉄道が開通し学校の移転等が行われ中頭西海岸地域の近代化の条件が整備されていった地域であった。

図1 旧北谷村全図(赤枠が分村後の北谷村)

図1 旧北谷村全図(赤枠が分村後の北谷村)

2.戦後の北谷
  1945年4月1日の沖縄本島上陸作戦では約10万発の艦砲射撃ののち米軍は上陸。この作戦により戸籍及び除籍簿等文書を喪失した。
  沖縄戦による戦没者村民人口比は24.9%、4人に一人が亡くなった計算となる。これは直近の昭和15年度国勢調査による村民人口及び、最新の沖縄県平和の礎市町村別刻銘者名簿により算出した。
  上陸作戦後は生活基盤(田畑、住宅、職場等)を喪失し、衣食住全てを米軍の配給に頼る収容所生活を余儀なくされた。米軍政下のもと沖縄戦終了後も通貨や行政制度も不安定に変転する状況が続いた。変わらないものは米軍政府の許容範囲内での行政機構による自治体制であり、これは復帰まで続くこととなる。
  沖縄戦終了後1年余を経て北谷村の一部地域への帰村が許可されたが、嘉手納基地の整備拡張がすすめられたことにより交通不便となったため、1948年12月嘉手納村との分村について陳情書を提出したところ沖縄民政府(沖縄住民側の政府機構)知事によって分村が認可された。図1に記された赤枠が分村後の北谷村となる。
  軍事占領継続のため村内では基地建設が進行していた。それを示すのが、図2講和前米軍土地使用状況である。記載された土地は村民の、田、畑、住宅等があった土地であり、村域のほとんどを米軍基地が占める過程が浮かび上がる。

図2 講和前米軍の土地使用状況(一部)

図2 講和前米軍の土地使用状況(一部)

  ディーン・G・アチソン国務長官による上下院合同の年頭演説で「西太平洋におけるアメリカの安全保障圏は、アリューシャン列島から日本列島・琉球列島・フィリピン諸島を結ぶラインである」と米国の防衛ライン構築が述べられた。その後、朝鮮戦争が勃発し、沖縄に基地建設ブームが到来することとなったが、日米講和条約発効により戦時占領体制も終了することから、米国は土地使用の合法化と地代支払いの検討を始めた。1951年土地の所有権が認定され、市町村長から住民に「土地所有権証明書」が交付されるようになった。このため広大な土地を強制的に接収し無料で占領する米軍に対し、軍用地料支払いの要請がされるようになった。
  1952年米国は軍用地料の一部支払いを認め「契約権」を交付した。しかし、借地料は安く20年という長期契約のためほとんどの地主はこれを不満として契約を拒否した。さらに、1953年「土地収用令」を公布し契約が成立しなくても告知後ただちに土地接収が可能となる強硬策が明らかとなり、真和志村(現那覇市)安謝・銘苅などが武装軍隊の手で強制接収された。これに反発した住民は、各市町村に土地委員会を組織して激しく抗議した。沖縄の土地闘争はここから苛烈化の方向に向かい、1954年立法院は次の4原則を決議した。1土地の永久借地並びに一括払い反対、2土地使用料は適正額を支払い毎年更新する。3損害補償の早期支払い、4軍用地新規接収反対とするものである。同年7月、米軍の沖縄基地建設計画にそって宜野湾村の伊佐浜が強制土地接収された。同年8月、北谷村では軍事基地建設用地として北前地区の一部を明け渡すよう民政府が通告した。これに端を発して沖縄各地で激しい軍用地反対運動が起きた。
  1958年モーア弁務官(米国政府機構のトップ)は立法院本会議で「土地収用計画が現在ワシントン政府当局で検討中」と述べ、折衝団が渡米しワシントンでの交渉は成立し、一括払い中止・適性保証で原則的に合意に達し土地闘争は終わりを告げた。

3.ベトナム戦争
  1960年代初頭から1975年まで南ベトナムを支持する米国に対し、南ベトナム解放民族戦線が繰り広げた戦争において1964年嘉手納基地から直接、戦闘爆撃機がベトナムへ出撃するようになった。
  嘉手納飛行場やハンビー飛行場は、出撃・補給・中継基地として航空機の発着数も激増した。
  キャンプ瑞慶覧ずけらんは、朝鮮戦争終結後に陸軍司令部がキャンプ桑江から移転し沖縄の米軍基地の中枢となっていた。1965年には対ゲリラ要員として陸軍第173空挺旅団(特殊部隊)が出動して行った。
  キャンプ桑江では、1959年に完成した陸軍病院(のちの海軍病院)にベトナムからの傷病兵が搬送され治療が行われた。

写真1 民間地から数十メートルの射撃場による実弾射撃訓練

写真1 民間地から数十メートルの射撃場による実弾射撃訓練

写真2 台風避難により嘉手納基地に飛来したB52戦略爆撃機

写真2 台風避難により嘉手納基地に飛来したB52戦略爆撃機



図3 軍用地開放要請地域図

図3 軍用地開放要請地域図

4.復帰と北谷村(町)振興計画
  琉球列島米国民政府は復帰による施政権返還により解散し、1972年5月15日琉球政府は消滅し新生沖縄県が誕生した。
  1950年代から米軍基地の返還要請を続けていたところ、1950年代後半から基地不用地が解放されるようになり、軍用地跡地の土地開発が活性化していたが局所的であった。復帰を契機として北谷村にて総合的な振興計画が策定され実施に向けて取り組みがなされていった。
  図3『北谷村振興計画書』中の軍用地開放要請地域図から1971年復帰直前の村域の半数以上を基地が占めている状況が一覧できる。橙色で村堺を表しており、着色地域は軍用地である。鮭色は軍用地開放要請地域である。軍用地開放要請地域の中でも軍道1号線現国道58号線沿いの海岸に面したハンビー飛行場跡及びメイモスカラー射撃場跡地の土地開発は、基地跡地利用の先鞭として県内他市町村でも注目を浴び、メイモスカラー射撃場の返還により桑江地先の公有水面の有効活用がなされ北谷運動公園をはじめ、アメリカンビレッジ等の集客地区の開発がすすめられた。

5.基地問題
  土地利用において、利便性に富む平坦地を広大に接収されたことにより、町民生活をはじめ道路整備等地域開発や産業振興の大きな障壁となっている。
  米軍基地の運用によって、航空機の爆音をはじめ、航空燃料や様々な危険物の流出汚染被害を生じている。加えて、軍事訓練の実行及び事故の発生による住民地域への影響も看過できるものではなく、基地に勤務する米軍人・軍属等による基地外での事件・事故も通年で発生している。
  これら長年にわたる基地問題は、基地の返還により解消されるものである。駐留軍用地の計画的・段階的な整理・縮小と共に、返還された駐留軍用地跡地の効果的な利用を推進しまちづくり目指していくとして、町内の駐留軍用地跡地の利用計画の整備が進められている。

写真3 キャンプ桑江基地内に建つ役場庁舎(1988年6月)

写真3 キャンプ桑江基地内に建つ役場庁舎(1988年6月)

図4 北谷町米軍基地分布図(平成20年3月現在)

図4 北谷町米軍基地分布図(平成20年3月現在)


おわりに
  駆け足で、戦後から復帰、現在に至る町と基地との関わりを振り返り、改めて先達の復興と平和への思いを感じている。
  軍事基地の性質は巨大な消費機構であり国際政治情勢に左右されるものである。そのため駐留軍用地を設けたものは、土地の生産性を奪い住民を基地に依存させることで、軍事基地の安定維持を企図する。一方で土地を守り、地域を育てることは土地に住む者の素朴な願いであり、自治の精神の端緒とも言える。その意志を受け継ぎ真摯に取り組んできた住民と支えてきた職員の思いを感じられた。
  2045年には戦後100年という節目もみえる。公文書館の役割として、『歴史的行政文書』を単なる行政資料の一つとして埋もれさせることなく、今と将来を見据える活きた資料としてどのように残し伝えていくのか、日々の業務の中で考え取り組むことをまとめとする。

〈参考文献〉
『講和前米軍の土地使用状況』 北谷村役場企画課 昭和27年(1952年)
北谷村『北谷村振興計画書』 昭和49年(1974年)3月 資料ID BK000002092
『基地と北谷町』 北谷町役場企画室 昭和59年(1983年)3月 資料ID BK000000594
北谷町史編集委員会『北谷町史 第6巻 資料5 北谷の戦後』 昭和63年(1988年)11月 資料ID BK000002569
北谷町史編集委員会『北谷町史 第1巻 通史』 平成17年(2005年)3月 資料ID BK000002561
『基地と北谷町』 北谷町役場総務部町長室 平成20年(2008年)3月 資料ID BK000000596