公文書館資料からみる復帰50年と北谷町

北谷町総務部公文書館
公文書館専門業務員 佐久川 志麻

公文書館閲覧室

公文書館閲覧室

はじめに
  北谷町公文書館は役場本庁舎の正面玄関からほど近い場所にある。ガラス張りに囲まれた閲覧室では町で発刊した刊行物、町内の字誌、学校、老人会、婦人会などの資料を中心に県内自治体の資料が閲覧できる。公文書館が現在地に移転したのは1998(平成10)年5月1日のことだ。その翌年度から2021(令和3)年度末までの一般来館者数は、のべ22,996人。役場の中に公文書館があるゆえに、町民も気軽に訪れる施設となっている。

1.北谷町公文書館の30年
  2022(令和4)年4月1日、公文書館は開館30年を迎えた。町村立の公文書館として全国で最初に設置された背景には、沖縄戦で公文書をはじめとした多くの地域資料を焼失した経験があった。町民から寄贈された戦前の地域資料(写真、ハガキ等)がわずかにあるものの、残された公文書、地域資料から北谷町の歴史をさかのぼることは難しい。戦災による記録の消失と戦後復興の苦難の経験から、時の経過とともに歴史資料としての価値が高まる可能性のある公文書等を保管し利用する重要性を理解するのは自然なことだった。
  開館当初は館舎を民間アパートの一部分を借りた形をとり、専門職員の配置も今後解決していく課題として残すなど、どちらかといえば厳しいスタートだった。小さな町の公文書館運営は容易なものではないが、限られた人員と予算のなかで公文書等の受入、評価選別と整理業務の実績を重ね、今年3月末時点で歴史公文書20,750件、行政資料(図書類)25,505冊(北谷関係7,959冊、郷土資料10,304冊、一般資料7,242冊)、写真類24,117件、パンフレット487件、新聞スクラップ77,408件を収集することができた。
  広報普及活動が本格的にはじまったのは、公文書館が役場新庁舎に移転したあとのことだ。2003(平成15)年に教育委員会との共催で初めての企画展を開催し、計7回の企画展を行った。他にも毎年10月に開催している「北谷町平和祈念祭」展示部門への参画(2005(平成17)年度から参画)、町内中学生職場体験の受入(2013(平成25)年度より受入)、「公文書館報」の連載(町広報誌「広報ちゃたん」2014(平成26)年8月号掲載開始)など、様々な機会を通じて公文書館活動の周知を図っている。
  レファレンスサービスは記録化がはじまった2006(平成18)年度以降、これまでに707件の問い合わせを受け、資料保存事業についても保存容器の入れ替え、音声や写真のデジタル化を継続的に行っている。
  そして今年5月、所蔵資料検索システムのWEB(https://www.chatan.jp/choseijoho/kobunshokan/kobunSer.html)公開がようやく実現した。所蔵資料の目録公開は館の主要施策だが、整理作業の遅れや予算の面で導入が思うように進まなかった。2018(平成30)年度にシステム導入に向け館内及び関係部署との調整がはじまり、紆余曲折を経て5月にシステムが稼働した。7月末時点で図書/刊行物1,354件、写真3,576件が検索可能となっている。まだ掲載されていない資料が多く、今後拡充していく予定だ。

人口移動ニ関スル件(1946(昭和21)年)

人口移動ニ関スル件(1946(昭和21)年)

2.本土復帰と「北谷村振興計画書」
  公文書館が開館30年を迎えた今年は、沖縄の本土復帰50年の節目でもある。現在公文書館に保管されている本土復帰までの歴史公文書は4,595件。土木、教育、保健、福祉、人事、予算といった当時の行政事務に関する文書はもちろんだが、その中には戦後北谷を象徴するような人口移動に関する文書や土地調査に関する文書、戦後処理(援護)に関する文書、軍用地に関する文書なども含まれている。
  1972(昭和47)年度の『村勢要覧』によると、北谷町(当時北谷村)の総面積のうち65%を米軍基地が占め、残り35%の土地に11,496人の村民が暮らしていた。
  終戦後村域を米軍基地に接収された村民は、収容所からの帰村が許されない状況が1年以上続き、役場でさえ隣の越来村ごえくそん(現沖縄市)に置かざるを得なかった。ようやく帰村許可が下りたものの、解放された土地は狭隘な山間地のわずかな場所で、「北谷ターブックヮ」(北谷の田んぼの意)と呼ばれた美田やサトウキビ畑が広がるかつての集落に戻ることは叶わなかった。利便性の高い平坦な土地に広がる米軍基地は町を分断し、戦前までの村域や字域が維持できず一部字の再編が行われ嘉手納村が分村した。また、道路整備や宅地開発、教育環境など様々な分野の行政活動にも支障をきたした。基幹産業は戦前の農業を中心とする第一次産業から米軍基地や関連業種を含めた第三次産業に変化し、戦後の北谷は米軍基地の制約を受けたまちづくりを余儀なくされた。
  そうした中でも町の発展に邁進し、今では県内有数の観光地として全国に知られる町へと変貌をとげたわけだが、その発展を支えたのが本土復帰を契機に策定された「北谷村振興計画書」だ。

返還前のハンビー飛行場(1976(昭和51)年)

返還前のハンビー飛行場(1976(昭和51)年)


北谷村振興計画作成要綱(1971年)

北谷村振興計画作成要綱(1971年)

  当時の沖縄は長期にわたる本土との行政分離によって、社会制度や産業振興など多くの面で格差が広がっており、本土復帰に際しそれらの解消と自立経済の構築を目指し「沖縄経済振興開発計画」を策定して様々な復帰対策を講じることとなった。琉球政府(当時)は沖縄各市町村長に対し、復帰対策としての市町村振興計画の策定を依頼しており、北谷村でも計画書の作成を行った。1971(昭和46)年に計画書の策定するにあたって留意する点や行うべき作業をまとめた要綱(「北谷村振興計画策定作業要綱」)を作成すると、議会をはじめ関係各位の協力を得て1974(昭和49)年に基本構想と振興計画を盛り込んだ「北谷村振興計画書」を刊行した。
  基本構想は1972(昭和47)年度を初年度とし、1981(昭和56)年度までの10年間を目標年次と定め目標を達成するための構想を明らかにし、それを実現するための施策や手段を体系化した基本計画と実施計画が立てられた。
  基本構想では当時の実情を「軍事基地依存度の高い特殊な経済構造の中で、村民は不安定な生活を強いられてきた」と述べ、あらゆる面で米軍基地を中心に動くいびつな状態から脱却し、今後は基盤整備を基礎として地域的・地理的特性を活かした産業開発を行い自立経済への移行を目指すことを掲げた。そして詳細な現状分析から、「基盤整備計画」「産業振興計画」「社会環境計画」「行政計画」の4つの基本計画を打ち出しているが、この中で特に注目したいのは基盤整備計画で示した「北谷村土地利用構想図」だ。

北谷村土地利用構想図(1974年)

北谷村土地利用構想図(1974年)

  構想図では土地利用の効果を高めるため、村を公共用地、住宅地域、商業地域等6つの用途に区分しているが、そこに今のハンビー地区や美浜地区が広がる西海岸地域を米軍基地からの返還後に商業地域として活用し、西側に広がる海岸も埋め立てて一体的に開発する計画が描かれている。本土復帰という大きな転換期をむかえ、北谷村の発展には西海岸地域の開発が必要不可欠で、実現により基地依存経済から自立型経済に転換できることを見込んでいた。
  1981(昭和56)年にハンビー飛行場とメイモスカラー射撃訓練場が返還されると、北谷村土地利用構想図で描いた西海岸地域の土地開発がはじまった。ハンビー飛行場跡地は北前土地区画整理事業によって住宅地が整備され、地区内には町内初となる郊外型の大型商業施設が開業し、周辺に飲食業や小売業、フリーマーケットなどが立ち並ぶ商業地域が形成され、メイモスカラー射撃訓練場跡地は西側海岸を埋め立てることでより効果的な土地活用を図った(桑江地先公有水面埋立事業)。
  北前を含めた埋め立て沿岸部は、1987(昭和62)年にCCZ(コースタル・コミュニティー・ゾーン)として建設省(当時)の認定を受け海岸整備が進み、西海岸開発の大きな足がかりになった。
  桑江地先の埋め立てで誕生した美浜地区にはサンセットビーチ、陸上競技場や屋内運動場(北谷ドーム)、野球場、テニス場、ソフトボール場などのスポーツ・レクリエーション施設が建設された。1994(平成6)年には美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ構想を発表。民間活力を生かした都市型のリゾート開発が行われ、今や沖縄観光に欠かせないエリアとなった。

ハンビー地区(1997(平成9)年)

ハンビー地区(1997(平成9)年)

アメリカンビレッジ(2000(平成12)年)

アメリカンビレッジ(2000(平成12)年)


おわりに
  本土復帰から50年。1980(昭和55)年の町制施行を経て北谷町は大きく様変わりしたが、今の北谷町のすがたは本土復帰のときに描いたビジョンに近いすがたとなった。
  西海岸地域の開発を中心とした北谷町のまちづくりは今も進んでいる。これらまちづくりにかかる経緯及び計画や意思決定過程が記録された公文書等は、いずれ歴史公文書として公文書館で保存される。
  これから先も、公文書館は北谷町の歴史や文化に価値ある記録を保存し、将来に伝える施設として町民に親しまれるよう、職員一同研鑽を積んでいきたい。

[参考文献]
北谷村『北谷村振興計画書』昭和49年3月
北谷町史編集委員会『北谷町史 第1巻 通史』2005年(平成17) 3月
北谷町総務部町長室『ニライの都市CHATAN 2020北谷町町制施行40周年』令和2年(2020)10月