国立公文書館所蔵資料展・三豊市文書館開館10周年記念展示「近代日本のあゆみと三豊」を開催して

三豊市文書館
宮田 克成

はじめに ~応募の経緯と開催の決定~
  三豊市文書館では、基本的に年3回(春・夏・秋)企画展を開催している。10年間、年3回の企画展を開催していると、その素材も尽きてくる。そのため、国立公文書館館外展示の公募を見ては、小規模な市町村の公文書館でも可能な館外展示を考えてほしいと要望してきた。その効果かどうかは不明だが、令和3年6月21日に国立公文書館より届いた、収蔵資料展の案内によれば、令和3年度から所蔵資料の原本展示と、解説パネルで構成したパネル展示の2つの開催方法から選んで応募できるようになっていた。
  令和3年度は三豊市文書館開館10周年にあたり、三豊市文書館も記念展示の開催を考えていた。そのような折に展示の案内が届き、当館の長年の希望もかなえてもらっていたので、スケジュール的に厳しい時期の展示会となるが、三豊市文書館開館10周年記念展示とすることを意図して応募することにした。そして8月3日に国立公文書館より会場選定結果の通知が届き、令和3年度の国立公文書館所蔵資料展は三豊市文書館で、令和4年1月22日から2月27日までの会期で開催することとなった。

ポスター

ポスター

展示内容の決定までの経緯
  8月12日にはメールにて初回の打ち合わせを行っている。例年では国立公文書館の担当者が開催会場に出向いて、初回打ち合わせを行っていたと聞くが、コロナ禍のため、メールでの打ち合わせとなった。基本的には国立公文書館からの質問に対し、こちらの要望を伝えるかたちで打ち合わせを重ねていった。
  展示内容としては応募の段階で「公文書にみる日本のあゆみ」を希望していたこともあり、これをベースに香川県や三豊市に関する資料を加えて構成することになった。そのなかで三豊市文書館から展示を希望したのは、三豊市内に存在する、あるいは存在した国立の施設に関する資料の展示であった。三豊市内には、粟島海員学校(現、粟島海洋記念館)、詫間電波工業高等専門学校(現、香川工業高等専門学校、詫間キャンパス)、国立療養所香川西病院(現、三豊市立西香川病院)などの国立の施設が存在した。三豊市域に所在したと言ってもこれらは国立の施設であるので、三豊市や合併前の旧町に文書が残るわけではなく、これらの施設に関する資料は当館もあまり所蔵していない。そのため、国立公文書館にこれらの施設の資料が残っていれば、展示してほしいと依頼した。もちろん展示構成の都合もあるので、そのなかで可能であればという話である。このような当館の要望も聞き入れて、国立公文書館の担当者で展示構成を考えていただいた。
  メール等での打ち合わせにより展示構成は固まっていくが、当館として不安であったのは、国立公文書館の担当者に会場の現場を見てもらっていないことであった。図面や写真などで展示会場をイメージしていただけているかもしれないが、やはり実際に見るのとでは大きな違いがある。そのため早期の来館を国立公文書館に求めるようになっていった。もちろん国立公文書館の担当者にも来館の必要性は理解してもらっており、新型コロナウイルスの感染拡大が少し落ち着いた10月26日に三豊市文書館へお越しいただくことが実現した。こうして会場を確認しながらの打ち合わせも実現し、展示の準備も加速していった。
1月上旬には筆者の都合で打ち合わせが難しい時期もあったが、国立公文書館の側で準備を進めていただいた。そして1月20、21日と国立公文書館の担当者にふたたび来館いただき、展示の設営を行い、22日に無事展示会を開催することができた。

展示解説

展示解説

パネル展示の内容
  パネル展示は4部構成となっており、それに加えて「公文書にみる三豊の人々」というコーナーを設けている。
  第1部「明治維新と香川県」は「戊辰戦争」と「廃藩置県と香川県の成立」から構成されている。現在まで続く香川県が設置されたのは明治21(1888)年のことで、それまで設置と廃止・合併を繰り返していた。「廃藩置県と香川県の成立」では明治21年の香川県設置に至るまでの資料を展示した。
  第2部「明治時代前期の日本と三豊の誕生」は「日本帝国憲法の発布と帝国議会の開会」と「四国新道の開鑿と三豊の誕生」からなる。前者では、当館の希望により「衆議院議員当選者調書ヲ上奏ス」を展示してもらった。これは令和2年度に高知県で開催された国立公文書館所蔵資料展でも展示されていた資料であるが、その展示を見にいった際にこの文書と出会い、第1回衆議院議員総選挙の香川県からの当選者5人のなかに三豊市域の人物がいることを知った。そのため昨年の高知県と2年続けての展示となるが、当館での展示にも加えてもらうように依頼していた。「四国新道の開鑿と三豊の誕生」では財田村(現、三豊市)出身の大久保諶之丞が尽力して開通した四国新道に関する資料と香川県下の郡廃置に関する公布原本を展示している。明治32(1899)年のこの公布原本が、公式に「三豊」という地名が登場する初出資料となる。
  第3部「大正・昭和時代の日本と三豊」は「大正大礼と「大礼記録」」と「昭和の戦争と三豊」からなる。前者は大正天皇即位大嘗祭において香川県が大嘗祭に新穀を献納する主基地方に選定されたので、それに関する「大礼記録」から三豊に関する部分などを展示した。後者では昭和17(1942)年の詫間町(現、三豊市)の都市計画に関する文書を展示してもらった。詫間町の昭和17年の都市計画に関しては、当館が所蔵する町会会議録などからも知ることができるが、具体的な文書が三豊市では確認できていない。そのため国立公文書館に残る文書を展示してもらった。地方で確認できない文書を国立公文書館で見ることができる1つの例となろう。
  第4部「戦後の日本と三豊のあゆみ」では、三豊市文書館の所在する三豊市山本町に関する資料を、三豊市文書館所蔵の資料も含め多く展示した。また、前述した三豊市域に存在する国立施設の資料として「詫間電波工業高等専門学校の設置」に関する文書を展示した。
  「公文書にみる三豊の人々」では、「四国新道の開鑿」に尽力し、瀬戸大橋を最初に提唱したと言われる大久保諶之丞、大正天皇即位大嘗祭に際し主基殿御用莚を献納した鳥取治郎八、大正製薬の創業者石井絹治郎を取り上げた。

関連行事と展示開催の効果
  1月22日、展示会の初日には、今回の展示会を主に担当いただいた国立公文書館の鈴木隆春公文書専門官による展示解説を行った。残念ながら新型コロナウイルス感染症が再び感染拡大しつつあった時期でもあり、参加者は6人であったが、皆さん熱心に展示を見ておられた。
  2月15日には展示会の視察のために国立公文書館長に来館いただいた。その際に、市長を表敬訪問していただき、市長とともに展示を視察いただいた。その効果かどうかは不明だが、この後市議会議員数名の来館があった。
  1月22日の展示解説には1社、2月15日の国立公文書館長の視察には2社の取材があったが、2月24日になってようやく展示会の様子が四国新聞に掲載された。この日は西日本放送ラジオの取材もあった。やはり新聞掲載の影響は大きく入館者が格段に増えたが、会期末間近であったため入館者数の大幅な増加には繋がらなかった。会期中の入館者数は、新型コロナウイルス感染拡大の影響等もあり、126人に止まった。3月15日には四国中央レポートに国立公文書館長の視察について掲載された。

市長表敬訪問

市長表敬訪問

展示視察

展示視察


展示を終えて
  三豊市文書館開館10周年記念展示として、国立公文書館所蔵資料展「近代日本のあゆみと三豊」を開催したが、新型コロナウイルス感染拡大等の影響もあり、入館者数は多くはなかった。国立公文書館が所蔵する貴重な歴史公文書を写真パネルとはいえ見ることができる機会であったので、もっと多くの方々にご来館いただきたかったと心から思う。新型コロナウイルスの感染拡大だけではない、三豊市文書館が持つ慢性的な原因も考える必要があるかもしれない。とは言え、展示をご覧になられた方には好評で、リピートされる方も何人かいらっしゃった。アンケートを見ても概ね好評であった。
  2月24日の四国新聞を見て来館いただいた方から、もっと早く知っていれば友達を連れてきたのに、とのお言葉をいただいた。この言葉から、三豊市文書館が抱える慢性的な問題の1つが、情報発信力の不足だと考えられる。今回のような国立公文書館が所蔵する貴重な歴史公文書を見ることができる展示であっても、それを開催していることを知ってもらわなければ入館者の増加には繋がらない。今回は国立公文書館の協力もあり、通常の企画展以上にポスター・チラシを配布するなど、広報には力を入れたつもりである。それでも情報発信力が足りないのであれば、これまでとは異なる情報発信が必要となる。文書館の情報を求める人だけではなく、文書館にさほど関心がない多くの人の目にも留まる情報発信(その1つがマスコミ報道)の必要性を考える機会ともなった。

  最後になるが、今回の展示会の開催にご尽力いただいた鈴木隆春公文書専門官をはじめとする国立公文書館の皆様に心より御礼申し上げます。