上田市公文書館の評価選別の取組と特色ある所蔵資料

上田市公文書館 館長 土屋 信之
上田市公文書館 専門事務員 倉澤 正幸

上田市公文書館ロビー

上田市公文書館ロビー

1 上田市公文書館における行政文書評価選別の取り組み
1.1 はじめに
  上田市公文書館(以下、「当館」という。)は令和元年度に開館してから3年目を迎えた。長年の懸案であった公文書館の整備が実現し、各所に分散していた合併前の旧役場文書が集約され、広く閲覧に供する環境が整えられた。次に当館が取り組むべき課題は保存期間が満了した行政文書の評価選別で、当館では初めての取り組みとなった。
  また、公文書館の設置に合わせて令和2年度に文書規程の改訂を実施し、文書保存期間の変更を行ったほかファイリングルールの見直しや新たな文書管理システムの導入を実施した。この改訂や導入を行った時期は耐震強度不足と診断された旧本庁舎の建替えと丁度重なり、令和3年度の新本庁舎完成を機に新たな文書ライフサイクルのもとで行政事務が行われる運びとなった。


評価選別作業風景

評価選別作業風景

1.2 選別基準及び評価選別作業について
  当市の選別基準は、(1)市全域の状況が把握できるもの、(2)長期的・継続的に地域の歴史の流れがわかるもの、(3)市の特色ある事象が明確になるもの、(4)文書の残存が少ない時期のもの、この4点に細目として収集及び非収集文書を記載したものである。
  この基準に沿い、選別作業は一次、二次と2回実施した。最初に文書担当部局による旧システムから新システムへの文書ファイル情報の移し替えと各部署への選別基準の周知が行われた。次に、各部署による一次選別作業として保存期間満了文書を「廃棄・廃棄延長・公文書館移管」の3区分に振り分け、処理の済んだ文書を旧庁舎書庫から新庁舎書庫へ搬入した。廃棄延長については、延長期間は1年とし毎年の見直しを必要としている。
  最後に、当館よる二次選別作業として、保存期間満了文書の一覧表(廃棄候補文書リスト)をシステムで出力した後、それを基に3区分に振り分けられた文書選別が適正かどうか、執務室や書庫へ出向いて直接現物の確認・評価を行った。今回の廃棄候補文書数は1,380冊を数え、結果としてそのうちの464冊が公文書館移管となった。初の評価選別作業であり、判断に迷う文書も少なくなかったが、1か月弱で何とか確認作業を終え、最終的には第三者機関である公文書館運営協議会での報告・審査を経て、今回の一連の作業が終了した。全作業期間は8月下旬から12月初旬までの4か月弱を要した。

1.3 今後の課題
  公文書館が設置され、行政文書のライフサイクルが変わったことで保存期間満了文書に廃棄以外の選択肢ができ、歴史資料として重要な文書の見極めが必要な時代となった。
  選別基準があっても廃棄か残すかの判断に迷うケースは多々あり、携わる職員の経験もまだ浅く、今回、十分な対応ができたのか疑問も残った。文書管理に関する知識・経験の一層の蓄積に加え、レコードスケジュール設定の必要性も強く感じた。
  今後、行政文書の評価選別は当館の毎年の主要業務となるので、歴史資料館として果たす役割とともに、より良い方向で定着するよう改善していきたいと考える。

2 上田市公文書館における特色ある所蔵資料
  上田市公文書館では、所蔵する資料についてテーマを決めて展示する「上田市公文書館所蔵品展」を現在年4回開催している。今回過去に展示した特色ある資料から3点を紹介してみたい。

「御高札」文書 徳川慶喜動向の記述部分

「御高札」文書
徳川慶喜動向の記述部分

(1) 慶応4年、戊辰戦争に関係した「御高札」文書
  上田市丸子地域の荻窪村で名主を務めた中村家から上田市公文書館に寄贈された文書の中に、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際の高札内容を記した『御高札』文書が含まれていた。この文書の最初には同年正月に参与から告知された徳川慶喜の動向が記されている。その内容は「徳川慶喜は天下の形勢を察して大政返上し、将軍職を辞退することを願い、列藩の上座に仰せ付けられた。ところが意外にも大坂城に移り、会津藩・桑名藩などを先鋒として戦争を起こし、大逆無道の罪を逃れることはできない」などと記している。また「速やかに賊徒を討ち、万民を塗炭の苦しみから救うように、仁和寺宮征討将軍が任命された」、「天領と称してきた徳川支配地や諸藩領で苛政に苦しんだ者があればその事情を本陣で合議し、公平の処置をとる」などの内容も記述されている。明治維新の戊辰戦争の状況が、高札によって地方まで具体的に伝えられており、興味深い資料である。


「西南戦争電信資料」 「田原坂の激戦」部分

「西南戦争電信資料」
「田原坂の激戦」部分

(2) 西南戦争に関係した電信資料
  旧神川村役場所蔵の明治9年(1876)から作成された「会所通達留」には、西南戦争の際に政府が発信した電信資料が保存されていた。この西郷隆盛らが挙兵した西南戦争では、明治2年に東京・横浜間で開通した電信が、重要な役割を果たしていたことが知られている。明治10年2月までに北海道から九州までが電信で結ばれ、政府は西南戦争の戦況を各地域に発信し、政府軍側を有利に導いている。電信文は毛筆により片仮名で書き留められ、薩摩軍を「賊」とし、警視抜刀隊による田原坂の激戦の様子などが報じられている。当時は大区小区制で、長野県の下に大区小区があり、この簿冊は北第八大区五小区の戸長役場で作成され、その後旧神川村役場に引き継がれて保存されていた。西南戦争は最後の最大規模の内戦とされ、西郷軍は約3万人、政府軍はその2倍から3倍程度の兵力を動員したとみられている。その激戦の様子がうかがわれる貴重な資料といえる。
  なお、国立公文書館には、西南戦争に係る資料として、重要文化財「公文録」明治10年の中に「鹿児島征討電報録三」(公02185100)があり、本資料の原本と推察される。同館のデジタルアーカイブで見ることができる。


明治11年に建設された上田街学校写真(上田市立博物館所蔵)

明治11年に建設された上田街学校写真
(上田市立博物館所蔵)

(3) 明治32年、上田女子尋常高等小学校再建の「頌徳表執奏ニ付伺」文書
  明治32年(1899)の「上田町会雑件綴」には、前年に火災で焼失した上田女子尋常高等小学校が再建された際の「頌徳表執奏(しょうとくひょうしっそう)ニ付伺」の文書が保存されている。頌徳表はほめたたえる文書で、執奏は天皇などに申し上げる意味とされる。この小学校は明治22年まで上田街学校と称し、建物は明治11年9月7日、明治天皇が北陸・東海巡幸の際に上田で宿泊し、その時に行在所(あんざいしょ)として使用された由緒ある西洋造三階建の建物であった。長野県下では、明治9年完成の松本開智学校(令和元年国宝指定)と並ぶ本格的な「擬洋風建築」であった。この建物は明治31年3月に火災で全焼し、その後上田町民多数が「金一万八千二百七十二円余」の多額の寄附を行い、直ちに復築が決定された。翌年11月には、早くも洋風三階建の小学校が再建された。
  この小学校の開校式にあたり、「頌徳表を天皇陛下に奉れば、宮内大臣より上奏いただけるか伺いたい」と記述した「頌徳表執奏ニ付伺」文書が残されている。なお、11月29日付で、小県(ちいさがた)郡役所より馬場上田町長宛に「この伺書はその関係から返し戻されたので返却する」旨、通知がなされている。

(上田市公文書館URL)
https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/kobunshokan/1111.html