国立公文書館
理事 中田 昌和
以前、いろいろ知識を学び、経験を積んだ職場の先輩から、「ある時、景色が一段違って見えることがあった」という話を聞いたことがあります。この場合の「景色」とは、単なる情景ということだけでなく、世の中の見え方というようなことだろうと思われました。
卑近なところでは、いわゆるマニアといわれるような方は、たとえばぱっと電車を見ても、私に見えるような「電車」というだけではなく、「○○系」とか「△△社製」とか、モーターの形式とかいろいろなことを読み取ることができるようです(音なども聞き分けられる方もおられるようです)。空や雲、山を見ても同様な話があると思います。
もちろん、専門のご研究をされている方などはなおさらでしょう。
個人的にも、ある時期、建築の様式の写真や本をいろいろ見た時期がありまして、半可通ながら、ビルや建物を見て、「これは誰々さんの設計・意匠っぽいな」と感じたり、それにまつわる記憶がいろいろ思い出されると、単に「建物」というだけでなく、様式、色、材質などなどさまざまな事柄が見えてくるような気がすることがあります。今風で言えば、拡張現実的に文字情報が「建物」の周辺に見えてくるというようなことでしょうか。
最近では、電車の中で本や新聞を見ている人は少なく、スマホの画面を見入っている方が多くなっていて、さまざまなアプリやサイトをご覧になっていたりします。ただし、印刷された本や新聞の場合とは異なり、たとえ同じアプリやサイトを見ていたとしても、各人のスマホの画面に出てくる情報が一人一人の嗜好や利用の履歴によって異なってくるということもあります。
同じ時代、同じ空間を共有し、同じ景色を見ているように思えても、そのときの興味関心や、持っている情報などが違うと、見えるモノ、そこから感じ取れることもだいぶ違うと言うことがあるのでしょう。だからこそ、「そういう見方もあるのか」、「そんなことが読み取れるのか」と、いろいろな方と対話をすることから得られることも大きいのではないでしょうか。また、単に考え方が違うということだけでなく、同じ景色を見ながらも、見えているモノが違うかもしれないということを考えながらコミュニケーションをとることが必要なのかもしれません。