明治150年関連展示「公文書から読み解く明治維新と佐賀」について

佐賀県公文書館
江藤 美紗

1.はじめに

 佐賀県公文書館では、県が保存している明治期からの県の公文書や行政資料等の歴史的文書を公開するとともに、より佐賀県の歴史に興味を持っていただけるよう、特定のテーマに基づく展示を行っている。テーマの選定については、県政や時事に関連のあるものを取り上げるようにしている。
 平成30年は、明治元年から150年にあたり、全国各地で明治維新150年事業が催された。本県では、肥前さが幕末維新博覧会(以下、「維新博」)を開催(会期:平成30年3月17日~平成31年1月14日)したことから、当館では、これに合わせて、「明治維新と佐賀」をテーマにした展示を年4回シリーズで行った。その取組について紹介する。

2.展示の構成

閲覧室内の展示スペース

閲覧室内の展示スペース

 展示テーマを企画するにあたり、当館所蔵資料の中から明治初期の資料を抽出したところ、数量が少なく、ほとんどが布達などであった。そのため、対象となる年代を明治中期にまで広げ、テーマを設定した。また、当館の展示は閲覧室内の一角で行っており、スペースも限られている。資料への負担も考慮し、展示期間を短くするため、会期を分けて展示を行うこととした。
 「公文書から読み解く明治維新と佐賀」シリーズ全4回
 【1】佐賀県の成立(平成30年4月4日~7月1日)
 【2】新しい仕組みの導入(同年7月4日~9月30日)
 【3】変わるくらし(同年10月3日~12月28日)
 【4】地方自治のはじまり(平成31年1月9日~3月29日)
 この他、前年度には維新博の関連展示として、昭和43年に実施された明治100年記念事業を振り返る「1968 明治百年記念」(平成29年12月12日~平成30年3月11日)を開催している。

3.展示の概要

【1】佐賀県の成立

 シリーズ1では、まず新政府成立前後の国内の状況について解説し、次に廃藩置県から現在の県域が確定するまでを取り上げた。当館に所蔵が無い年代の資料については、他館から資料画像を提供していただき、パネル内にて使用した。

<廃藩置県後の佐賀>

県域の変遷(旧版『佐賀県の歴史』付録、『法令全書』、『長崎県史稿』をもとに作成)

県域の変遷(旧版『佐賀県の歴史』付録、『法令全書』、『長崎県史稿』をもとに作成)

 明治初期における本県は、廃藩置県後の県の統合、佐賀の乱(佐賀戦争)後の近県への併合があり、県域が安定していなかったため、図を用いて県域の変遷を整理しつつ、当時の県内の様子について紹介した。
 明治6(1873)年12月、佐賀において征韓論に賛成する士族が征韓党を結成し、翌7(1874)年1月には、旧藩時代の体制を支持する士族たちが憂国党を結成した。政府は、旧雄藩である佐賀の反政府的な動きを警戒していた。
 征韓論争で辞職した前参議の江藤新平、そして蝦夷開拓使首席判官や秋田県権令を歴任した島義勇は、士族たちの暴発をおさえるため帰県したものの、政府は鎮圧軍を配備して制圧しようとしたことから、反発した江藤と島は、明治7年2月、征韓党と憂国党の士族たちを率いて戦った(佐賀の乱(佐賀戦争))が、敗れ去り、処刑された。
 当館が所蔵する資料のうち、佐賀の乱(佐賀戦争)に関連するものはほとんど無く、本展では2点を展示した。1点目の『明治七年役之梗概』(大正5年)には、佐賀の乱(佐賀戦争)の概要が記載されている。2点目の『佐賀 熊本 鹿児島之役 戦死人名録』(年不詳)には、佐賀の乱(佐賀戦争)、神風連の乱、西南戦争で戦死した鎮圧軍側の佐賀出身者の名前が綴られている。

明治七年役之梗概

明治七年役之梗概

佐賀熊本鹿児島之役戦死人名録

佐賀熊本鹿児島之役戦死人名録




長崎県引継書目

長崎県引継書目

 佐賀の乱(佐賀戦争)以後も佐賀県では士族に不穏な動きがあったことから、政府から難治県の一つと考えられており、この難治県を近県に併合することで旧藩士族と県庁の結びつきを遮断し、県に対する政府の統制力を強化しようとした。
 佐賀県は、明治9(1876)年4月に三潴(みずま)県に併合されるが、順次長崎県へ移管され、同年8月には三潴県が廃止となり、旧佐賀県域はすべて長崎県へ併合された。
 明治15(1882)年、佐賀県を復活させようという運動がおこり、翌16(1883)年5月に長崎県から分離独立し、現在の佐賀県域となる。資料展示では、佐賀県が長崎県から分離した際に引き継いだ書類の目録などを展示した。

【2】新しい仕組みの導入
 シリーズ2では、明治政府が近代国家をつくるために新しく導入した仕組みと佐賀県での実施状況について紹介した。

<戸籍制と大区小区制>

 政府がさまざまな改革を実施するためには、まず国民を一律に把握することが必要であった。明治4(1871)年4月に戸籍法が公布され、佐賀県では同年7月に大区小区制を施行するが、シリーズ1で紹介したように明治初期は県の統廃合が繰り返し行われたため、そのたびに大区小区の番号が変わるという煩わしさがあった。ここでは、時期ごとの区番号表を作成して紹介した。

加地子反別持主書上帳

加地子反別持主書上帳

<地租改正>

 政府は、近代的土地所有権と財政基盤を確立するため、土地制度の改革に着手し、明治6(1873)年7月に地租改正条例を公布したが、佐賀県では江戸時代から続く加地子地(小作地)の取扱いが問題となった。天保13(1842)年以来、佐賀藩の土地政策によって小作人が地主に納める加地子米(小作料)は免除されていた。
 しかし、県はこれを撤廃し、加地子地処分令を発令したが、処理はなかなか進まなかった。西松浦郡では一揆も起こり、地主・小作人間の土地所有権をめぐる紛争が明治16(1883)年頃まで続いた。

<近代教育のはじまり>

学校設立之儀ニ付伺

学校設立之儀ニ付伺

 明治4(1871)年、文部省が創設され、江藤新平が事実上の最高責任者となり、その後、初代文部卿に大木喬任(佐賀出身)が任命され、学制の制定にあたった。
 明治5(1872)年8月、政府は学制を公布し、翌6(1873)年10月、佐賀県は第5大学区第6~8中学区に指定される。翌7(1874)年初頭には小学区も確定し、31の小学校が開校したが、同年2月の佐賀の乱(佐賀戦争)により学制の実施は一時中断することとなる。
 その後、明治8(1875)年に、県は中・小学区を改定して教育行政体制を整備し、県下における教員養成も開始され、学制の実施が本格化した。資料展示では、明治9年の学校設立伺を展示した。

【3】変わるくらし
 シリーズ3では、日本が西洋諸国と同等の文明国であることを示すため、明治政府が積極的に取り入れた西洋文化について紹介した。

<市民生活の変化>

 西洋文化の流入は、主として都市部や開港地で進み、地方に波及するまでには時間がかかった。加えて、私文書を所蔵していない当館には、生活の変化をうかがえる資料が少なかった。そこで、当時、参議を務めていた大隈重信(佐賀出身)が主導した、太陽暦の導入と貨幣制度の統一について紹介した。資料展示では、休暇を日曜日に改める旨の達や、旧藩札の廃止に伴う交換方についての達などを展示した。

九州鉄道土地収用関係書類

九州鉄道土地収用関係書類

<交通・通信の展開>

 明治5(1872)年9月12日、日本で初めての鉄道が新橋~横浜間に正式に開業した(この事業にも大隈は尽力している)。
 九州では、明治22(1889)年12月11日に博多~千歳川仮停車場(現・鳥栖市)間に初めて鉄道が開業する。その後、県内では明治24(1891)年8月に鳥栖~佐賀間、同28(1895)年5月に佐賀~武雄間、同30(1897)年7月に武雄~早岐(長崎県)間が順次開通した。
 通信の面では、明治4(1871)年1月24日、新式郵便制度の開始が布告され、同年3月1日から東京・大阪・京都間において郵便事業が始まった。郵便路線は広がり、県内においても、同年末までに鳥栖・神埼・小城・嬉野・佐賀の各地に郵便取扱所が設置された。
 電信線の架設も進み、明治6(1873)年2月に開通した東京~長崎間の電信線架設工事では、当時、工部省初代電信頭を務めていた石丸安世(佐賀出身)が活躍している。明治6年10月1日、佐賀郵便取扱所に佐賀電信局が併設され、電報業務を開始した。

【4】地方自治のはじまり
 シリーズ4では、近代的地方制度の導入と佐賀県における地方自治の草創期について紹介した。

戸長名簿

戸長名簿

<三新法の制定>

 明治政府は、地方制度の改革に乗り出し、明治11(1878)年7月22日に郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則(いわゆる三新法)を公布した。
 三新法が施行された当時、佐賀県域は長崎県の管轄下にあったが、明治11年10月に長崎県は郡区町村編制法を施行したことにより、大区小区制を廃し、県のもとに行政単位として旧来の郡や町村を認めて、郡長・戸長を置き、佐賀県域は7大区46小区から10郡となった。
 資料展示では、明治17(1884)年の戸長制度改革後の戸長名簿を展示した。

<県会の開設>

 明治12(1879)年3月、長崎県会が開設され、定員62人のうち、26人が佐賀県域選出の議員であった。初代議長には、小城郡選出の松田正久が任命されている。また、佐賀県が独立するまでの約4年間に議長や副議長を務めた5人のうち、4人が佐賀県域の議員であった。
 明治16(1883)年5月に佐賀県が長崎県から独立すると、県会も独立し、同年8月に最初の臨時県会が願正寺(現・佐賀市呉服元町)で開かれた。3年後の明治19(1886)年には、県会議事堂が北堀端(現・佐賀市松原)に新築され、その後、同29(1896)年に県庁西側に新築移転した。

県制施行の旨告示

県制施行の旨告示

<地方制度の整備>

 政府は、憲法制定と国会開設に向けた地方制度を確立するため、地方に自治を認めつつ、政府の統制を加える中央集権的な体制を整備する。
 明治21(1888)年4月に市制・町村制が公布され、翌年4月から各地方の状況に応じて施行させた。佐賀県では、町村制実施取調委員を設けて準備を進め、明治22(1889)年4月1日に施行した。
 また、明治23(1890)年5月、府県制・郡制が公布されるが、施行の前提となる郡の再編は、全国的に難航した。佐賀県では、明治29(1896)年に三根・養父・基肄郡を合併して三養基郡とし、翌30(1897)年6月1日に郡制を、同年9月1日に県制を施行した。

4.おわりに

 本稿では、平成30年度に開催した明治150年関連展示の概要と取組について紹介した。今年度は、維新博に来場された方が当館にも足を延ばしてくださることがあったが、このような施設があったとは知らなかったと驚かれることも多く、認知度の低さを痛感したところである。
 展示に関しては、他業務を抱えながら準備を行っているため、頻繁に開催することは難しいが、複製物での閲覧・複写を原則としている当館において、展示は利用者の方に資料の原物を見ていただく数少ない機会である。また、館の認知度を高めて閲覧利用につなげるためにも、展示で情報や話題を発信することは重要であると感じている。