(巻頭エッセイ)岩倉使節団は「公文書館」を視察した・・・のか?

国立公文書館
理事 福井 仁史

岩倉使節団(山口県文書館所蔵による)

岩倉使節団(山口県文書館所蔵による)

 アジア歴史資料センターのインターネット特別展でも取り上げられ、明治150年に当たり注目度の高まっている岩倉使節団ですが、彼らは、旅程の終わりに近い明治6年5月、ヴェネチアで「アルチーフ」なる施設を訪れ、その「書庫」で「支倉六右衛門」が遺した署名入りの文書を見せられます。当時は伊達政宗が支倉常長を遣欧させたことが知られておらず、使節団の公式報告書である「米欧回覧実記」には、この文書の来歴について「怪しむべきに似たり」という感想を漏らしていますが、遺された記録が隠されていた事実を明らかにした劇的な一例といえるでしょう。
 ところで、このとき、使節団が「大造営の屋館」と感嘆した建物は、ヴェネチア国立文書館として現存していますが、岩倉使節団は欧州における「アルチーフ」という施設の意義をどう捉えていたのでしょうか。
 彼らは二年近くをかけて、既に国立公文書館が設立されていたイギリス、フランスを含む各国を巡ってきたはずなのに、ヴェネチア以外で他の「アルチーフ(アーカイブ)」を訪れた形跡が全くありません。そして、禽獣園(動物園)、草木園(植物園)、博物館、書館・大書庫(図書館)、蔵画館(美術館)、褒巧院(特許庁)など、次々と訳語をつくってきた久米邦武ら「回覧実記」の報告者も、ついに「アルチーフ」については原語のままで、訳語を作れませんでした。その機能についても、
「西洋に・・・書庫の設けあり、廃紙断編もまた収録す、開文の至りなりと云うべし」
と、不必要になった文書や一部しか残っていない書物も保存するのが「文明開化の行き着く先だ」という感想にとどまっており、「アルチーフ」と図書館(「書館」・「大書庫」)との関係も整理しきれなかったようです。だいたいヴェネチア共和国自体が既に一世紀近く前に解体されていたこともあり、彼らはヴェネチアで「アルチーフ」なるものの書庫は見たけれど、それが政府の公文書を保存し国民と共有するための施設だ、という認識には至らなかったのでしょう。
 しかし、それから世界も日本もどんどん変わりました。
「世運の推移すること、驟輪の如く、人事の変化することは、波瀾に似たり」(「回覧実記」例言)。
時代の変化に伴って、現代のアーカイブには多様な機能・使命が求められ、施設、制度、人材育成など、課題も次々と生まれてきます。これに携わる人間には、専門性に加えて、広く、遠くまで見渡した知恵も必要です。・・・どうやら150年前のひとびとがいろんな分野で直面していた状況とあまり変わらないみたいです。