「東京150年 公文書と絵図が語る首都東京の歴史」の開催について

東京都公文書館
西木 浩一

1、「Old meets New 東京150年」事業の一環として
   江戸から東京への改称、東京府の成立から150年の節目の年を迎え、東京都では標記の事業を展開している。これは「記念の節目を都民と祝うとともに、江戸から近代、現代と連なる伝統、歴史、文化、技術など、東京の都市としての魅力や力を再発見・再認識することにより、東京への愛着や東京2020大会に向けた一体感を醸成する」ことを目的とするもので、「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」のホストシティとしての取り組みの一つでもある。
   東京都公文書館では当該事業の一環として「東京150年 公文書と絵図が語る首都東京の歴史」という企画パネル展を用意し、以下の3ヶ所で巡回展を開催している。
 ①平成30年9月10日~10月18日 会場:都立多摩図書館
   パネル展に加えて関連図書等を展示。
 ②平成30年10月23日~11月20日 会場:東京都公文書館展示コーナー
   東京都教育庁主催の東京文化財ウィーク2018参加企画展に位置づけ、
   パネル展示に加えて重要文化財に指定されている「東京府・東京市行政文書」原本を展示。
 ③平成30年11月26日~12月21日 会場:東京区政会館エントランスホール
   公益財団法人特別区協議会との共催企画展で、パネル展に加えて、
   特別区協議会製作による床面シートや壁面への超大型パネル等を加えて構成する。
   また各会期中には、今回新たに製作したビデオ番組「画像でたどる東京都域の成り立ち」等を視聴していただいている。

企画展ポスター

企画展ポスター


展示室の風景

展示室の風景


2.パネル展の概要と資料紹介
 ここでは「東京150年 公文書と絵図が語る首都東京の歴史」の概要をたどりつつ、興味深い資料の一端を紹介していきたい。
Ⅰ 江戸から東京へ
 天下の城下町江戸から近代国家日本の首都東京へ、近代移行期の東京のすがたを追っていくコーナーである。コーナーキャプションに加え「東京府開庁」「東京奠都」「首都中核機能の形成」「汽笛一声~鉄道の開通」「銀座の煉瓦街の誕生」「東京開市と居留地の設置」「築地ホテル館」「明治初期の迎賓館~延遼館の誕生」「開化の世相と庶民生活~違式詿違条例の制定」「開化VS旧弊 興廃くらべ」「日本髪から洋髪へ」の11枚で構成している。 
 明治元(1868)年10月13日に明治天皇が東京に到着、その日江戸城は東京城と改称された。その翌月4日には天皇から東京の市民に酒が下賜されることとなり、6日と7日の両日、人々は「天盃頂戴」といって酒を飲み合い、祝祭気分で市中を練り歩いたという。ポスターなどにも利用した錦絵「御酒頂戴」は、その様子を活写したもの。新政府は東京への事実上の遷都について、京都の動揺に配慮し「東京奠都」と表現した。旧都の廃絶を含意する遷都ではなく、京都と並んで単に東の都「東京」を置く、だから東京奠都と表現したのであった。この「御酒頂戴」は、段階的に事実上の遷都が実施されていく大切な政治的プロセスの一齣でもあった。

歌川広重(3代)「御酒頂戴」

歌川広重(3代)「御酒頂戴」

「法令類纂」巻之七十一

「法令類纂」巻之七十一



 また、東京府が明治10(1877)年から編纂を開始した明治初年の大法令集「法令類纂」には、おそらく我が国初めての鉄道時刻表が記録されている。正式な鉄道の開通前に、明治5(1872)年5月7日から品川・横浜間で試行的に運行された鉄道列車の「鉄道列車出発時刻及賃金表」がそれだ。所要時間は35分、車の等級は上等・中等・下等に分かれ、それぞれ1円50銭、1円、50銭であった。また「犬1疋に付片道賃銭二十五銭」と記されているのは、横浜の外国人乗客を念頭に置いたものであろう。

Ⅱ 東京に尽くした人々の足跡
 2つ目のコーナーでは東京の発展に尽くした数多くの人々の中から、多様な分野で活躍した11名を選び、当館所蔵資料の中から興味深いエピソードとともにその足跡を探ってみた。
 江戸城無血開城により江戸を兵火から守った勝海舟と西郷隆盛、明治の新時代を思想家・教育者として切り開いた福沢諭吉、近代日本実業界の父・渋沢栄一。女子教育の先駆者として今につながる道を開拓した津田梅子と下田歌子。また首都東京の建築をリードした人物としてジョサイア・コンドルと辰野金吾を取り上げている。市長や知事として市政・都政をリードしたリーダーの中からは、尾崎行雄、後藤新平、安井誠一郎の3氏を紹介している。
 ここでは、西郷隆盛に関する公文書を紹介する。
 明治10(1877)年2月、鹿児島士族の反乱に担ぎ上げられる形で西郷隆盛が出陣、のちに西南戦争と呼ばれる内戦が勃発した。鎮圧に向かった政府軍と西郷軍の戦いの最前線の状況を、政府は当時最新・最速の情報伝達手段であった電信を使って東京へ送り、そこから各地に伝達していった。ここに掲げた「行在所布告達電報」という簿冊にはその時送られた電信文がそのまま綴じ込まれている。今、このカタカナ文を解読してみると以下のようになる。 
  十四日、巡査賊塁に切り込み、歩兵三隊を分かち、奮戦して田原の賊塁を捕り、続いて数塁を抜き、これを毀ち、なお街道に沿って進み戦い、必死の賊六、七十人を斃し・・・
 この電信が送られた3月16日は、南下する政府軍と北上する西郷軍が熊本北方の田原坂で激戦を繰り広げている真っ只中であった。この後西郷軍は守勢に転じていく。
 この東京府文書の中には140年以上前の戦場のリアルが封じ込まれていたことになる。
 西郷隆盛は、この内戦の過程で官位も剥奪され、朝敵として悲壮な最期を遂げた。明治10(1877)年9月24日、隆盛51歳の時であった。しかし、明治22(1889)年2月に大日本帝国憲法発布の大赦で罪を許され、正三位の追贈も受けて名誉を回復すると、その翌年7月、薩摩出身の樺山資紀らを発起人として、皇居正門外広場へ西郷隆盛の銅像建設願が提出された。これは同24(1891)年10月、いったん許可が下りたものの、翌25年10月に取り消され、上野公園が代替地とされている。その後発起人らは、銅像を軍服姿にしたいと願い出るが、これも却下となり、結局、西郷がよく出かけたという兎狩りの姿で製作されることとなった。今も上野公園に所在する高村光雲作の西郷像が完成したのは明治31(1898)年のことだった。
 薩摩藩関係者の願い通り、西郷の銅像が軍服姿で皇居前広場に建っていたとしたら、私たちの中の西郷どんイメージはずいぶん違ったものになっていたのではないか。そんな事を考えさせられるエピソードも、分厚い公文書には綴じ込まれているのである。

『行在所布告達電報』明治10年

『行在所布告達電報』明治10年

『普通第一種 稟申3〈第二課(地理)〉』明治23年

『普通第一種 稟申3〈第二課(地理)〉』明治23年


Ⅲ 東京都公文書館~50年のあゆみと100年の前史
 昭和43(1968)年10月1日、東京都港区海岸一丁目に東京都公文書館が開館した。今年で開館50年ということになる。
 昭和27(1952)年に設置され、東京府・東京市行政文書や江戸明治期史料の保存と目録作成、史料編さん事業に取り組んでいた都政史料館がその前身となっている。
 一方で、当時有楽町に所在した東京都庁には文書を保存するスペースが限られており、長期保存文書を引継ぎ、適正に保存する必要が喫緊の課題となっていた。
 こうしたことから、昭和39(1964)年から公文書館の設立準備が進められ、都政史料館の機能と、長期保存文書の引継ぎという文書課の一部機能を統合して誕生したのが東京都公文書館であった。
 東京150年に公文書館50年ということは、東京府成立以来の100年間の前史において、貴重な資料群が蓄積・形成され、保存されてきたということになる。ここではそのプロセスに焦点を当てて、「東京府・東京市の文書管理」「東京府・東京市の編さん事業」「文書疎開から都政史料館へ」「東京都公文書館の50年」「公文書館の新たなステージに向けて」という内容のパネルを作成した。

図1 文書疎開から復帰まで

図1 文書疎開から復帰まで

白石弘之「東京都公文書館の歴史 文書疎開から30年公開まで」
(『東京都公文書館 調査研究年報〈WEB版〉』第1号)より

 ここでは東京都の文書疎開についてご紹介したい。昭和18(1943)年7月1日に東京都制が施行され、東京府・東京市を廃止統合して東京都が発足した。明治初年以来の東京府文書、東京市文書、府・市の編さん事業で作成された写本や収集された古文書などもすべて都に引き継がれた。だがすでに戦局は悪化、その年12月には「文庫疎開計画」が立てられている。これによれば、東京府庁と東京市役所から引き継いだ16万冊の内、6万冊を疎開前整理と称して廃棄又は移管し、残りの約10万冊が疎開対象となっていた。その廃棄予定文書の中には明治期の東京府文書約1万冊も含まれ、廃棄資料として野積みにされていたという。たまたまそれを東京市史編纂室のスタッフが見つけ、これらを「歴史資料」としてもらい受け、本来の文庫疎開計画とは別に、埼玉県騎西町の農家の米蔵を借り上げ疎開を実施したのである。
 一方本来の文庫疎開計画に基づく疎開先は文書課四谷分室と若木町防衛局倉庫の2ヶ所で、若木町からはさらに安全な南多摩郡の蔵へ再疎開が行われたが、その準備中に相当数が空襲を受けて焼失している。これらを示したのが「文書疎開から復帰まで」である。
 こうして無事に消滅を免れた歴史的資料群の内、「東京府・東京市行政文書」33,807冊は平成26(2014)年に国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。東京府成立以来の公文書管理の営み、先駆的な編さん事業による資料の収集と保存、そして空襲の最中に実施された文書疎開。こうした努力がなければ今日の東京都公文書館所蔵資料の大半は存在せず、東京150年を資料に根ざしてふり返ることはできなかったに違いない。

Ⅳ 東京都域の成り立ち
 このコーナーでは、現在の東京都域と行政区画ができあがってくる過程をたどっている。
今から150年前に誕生した東京府を出発点に、その後移管・編入によって管轄区域を拡大しつつ、内部の行政区画もめまぐるしく変わっていった。その複雑な変遷を探っていくには現在の東京都を4つの地域に分けて考えてみることが有効である。

A:江戸時代の町奉行支配地、江戸の市街地
    1868年、東京府設置⇒1878年、15区設置⇒1889年、東京市が成立
B:江戸周辺の農村地帯。20世紀に入って都市化が進む新市街地
   1869年品川県・小菅県・大宮県成立⇒1871年、東京府に編入⇒1878年、
   6郡設置⇒1932年東京市に編入され20区設置
C:伊豆諸島及び小笠原諸島からなる東京の島嶼地域
   1878年、伊豆諸島が静岡県から東京府へ移管
   1890年、小笠原諸島が内務省の所管から東京府へ移管
D:西多摩・北多摩・南多摩の三多摩地域
   1893年、神奈川県から東京府に編入
 戦後、昭和22(1947)年3月、A・Bの範囲の35区が22区に統合され、次いで板橋区から練馬区独立した同年8月に現在に至る23区が成立した。
 ここでは詳細をたどることはできないが、上記の区分を意識しながら次のようなパネルで東京都域の成り立ちを早わかりできるように構成した。
 「東京府の成立と廃藩置県に伴う拡張」「15区と6郡の成立」「東京市の成立と明治の町村合併」「東京市の成立と明治の町村合併」「伊豆諸島と小笠原諸島の編入」、「三多摩の編入」「郊外の都市化~大東京35区の成立」「民主主義の礎~東京23区の成立」
 また、現在の都域の形成過程を約8分でたどっていただくビデオ「東京150年~画像でたどる東京都の成り立ち」を作成し、展示会場で放映した。

むすびにかえて

 東京府の成立から150年、公文書館の設立から50年、この2つの節目を意識しながら構成してきた企画展の概要を駆け足でご紹介してきた。
 最後に公文書館の新たなステージに向けて、新公文書館について現況をお伝えしたい。
 新公文書館建設工事は、平成30 (2018)年1月から始まった。工期は平成31 (2019)年10月末までの予定で、その後書庫環境等を調えながら移転を進め、平成31年度中には新館での業務を開始する予定になっている。

新公文書館完成予想図(西側外観パース)

新公文書館完成予想図(西側外観パース)

 新館は都有施設としては初めてのZEB化実証建築として、外壁の二重化・断熱強化や、太陽光発電設備など、最新の省エネ・再エネ技術を導入する。こうした技術を活用することで、最適な温湿度管理を行い、書庫面積の拡充と併せ、公文書を適切に管理していくことを目指している。
 また所蔵資料の電子化をより一層進めることにより、検索や閲覧の利便性を高めることや、展示室・セミナールームを活用しての普及事業の展開など、公文書館の機能アップを具体化して新館移転を実現していく。
 東京150年、公文書館50年のその先の未来へ、過去をふり返りつつ新たな前進を続けていきたい。