「明治150年 徳島の古文書で見る明治維新」展を企画して

徳島県立文書館
金原祐樹

1、はじめに
 今から150年前、慶応4年(1868)から明治元年へと変わった年はどのような年だったのだろうか。こうした本当に素朴な疑問から、徳島県立文書館の「展示の企画」は始まることが多い。所蔵資料がすべて検索できる内部用のパソコン端末機で調べてみると、年代が「明治元年」と登録されている史料が383件、「慶応4年」と登録されている史料が655件、合計で1,000件を超える事がわかった。その一年の生の史料が十分あることが、まず、この企画を進める推進力となる。
 この年は、国のかたちが大きく変わった1年であることは間違いない。「明治150年徳島の古文書で見る明治維新」展図録のあいさつ文の中で、当館館長の徳野隆は「明治維新期、この国に住むすべての人が何らかのかたちで時代の動乱に巻き込まれました。今回の展示では、当時の阿波の人びとがどのように時代の転換に向き合っていったのかについて、藩の重臣、大商人、村役人、そして一般民衆など様々な視点から紹介できればと考えています。」と述べたように、徳島の人びとが作成し、または取得した生の史料を利用して、人びとがどのようにこの一年を捉えていたのかを考え、その一端でも示すことができればという視点で展示の企画を進めることとした。

2、展示の構成
 企画を進めるにあたり、まず当館にある史料から展示の構成原案を定めた。
表

「陸奥・出羽・越後戦争ノ図」(酒井家文書)(クリックすると大きくなります)

「陸奥・出羽・越後戦争ノ図」(酒井家文書)(クリックすると大きくなります)

 当館の展示室はわずか29平米の空間で、北は窓ガラスのある壁面、南はガラス張りの出入り口になっており、東西のガラス張りの壁面が主な展示スペースになっている。また展示室中央に覗き展示ケース四台を置きそのケースを左に回るかたちで展示を構成している。展示する史料の多くは古文書・公文書なので、下に並べる史料に困ることはほぼ無い。壁面を埋めることができれば、形を整えることはできるため、まず、壁面を埋めるための史料選びから展示の構成を組み始めた。
 まず、文書館寄託酒井家文書「陸奥・出羽・越後戦争ノ図」が利用できる。これは、徳島県西部半田村(現:美馬郡つるぎ町)商人である酒井弥蔵がほぼ同時期に手に入れたと思われる木版の図面で、二分割で北陸から東北地方における戊辰戦争の様子を描いている。
 次に、徳島の外港である小松島浦(現:小松島市)の豪商西野家が所有していた「淀川合戦見分奇談 初編上」を見つけた。これは、鳥羽・伏見の戦いを絵入りで解説した版本である。序によれば大坂の北遊山人が、慶応4年1月初め、画工である六花園恵雪(浮世絵師森芳雪の号)を伴って、大和の月ヶ瀬(現奈良県奈良市)に梅見に行く途中、鳥羽・伏見の戦い直後の様子を現地で見聞きしたものを小冊子としたとある。その後、わずか2ヶ月後の3月には発刊しており、鳥羽伏見の戦いの様子を知る瓦版的な役割も持っていたのだろうと推測される。これを大坂湾を隔てて大坂の対岸にある小松島の商人西野家は手に入れていた。

朝敵追討の綸旨を給う「淀川合戦見分奇談初編上」(西野家文書)

朝敵追討の綸旨を給う「淀川合戦見分奇談初編上」(西野家文書)

二条新橋の御制札「淀川合戦見分奇談初編上」(西野家文書)

二条新橋の御制札「淀川合戦見分奇談初編上」(西野家文書)



 その内容は、噂話の域を出ない部分もあるだろうが、図版を含めて、当時の徳島の人びとが鳥羽伏見の戦いについて深く知るきっかけとなっただろう。この本の図版から「朝敵追討の綸旨を給う」、「二条新橋の御制札」、「京朱雀野立札」そのほか各戦いの場面をパネルにして、簡単な解説を付けて展示することとした。
 これらに加え、慶応4年・明治元年の関係年表をまとめて、パネル化することができれば、ある程度壁面を埋めることが可能と考え、さらに職員全体で内容の吟味を進めた。

「明治戊辰ヨリ辛未ニ至年間聞取書」(西野家文書)

「明治戊辰ヨリ辛未ニ至年間聞取書」(西野家文書)

3、戊辰戦争の中の徳島
 関係年表を編集していくと気づいたことがあった。「鳥羽伏見の戦い」の幕が切って落とされ、戊辰戦争へと突き進むこととなった慶応4年1月は、徳島にとっても様々な動きが収斂していた時期だということである。
 そのひとつが、慶応4年1月4日未明に起きた阿波沖海戦である。当時、大坂湾は圧倒的な幕府の海軍に押さえられていた。兵庫の港から鹿児島に逃げ帰ろうとした薩摩藩船三艘は、阿波の由岐浦(現海部郡美波町由岐)沖で幕府の軍艦開陽丸に追いつかれ海戦となる(日本史上の洋式軍艦による近代的海戦とされる)。機関を損傷した翔鳳丸は、由岐浦まで漸くたどり着き、乗組員は船を自爆して由岐に上陸し、高知(土佐)へと去ったという。このことは、西野家文書「明治戊辰ヨリ辛未ニ至年間聞取書」に記述されている。小松島の商人である西野家が明治維新期にいかに多くの情報を集めていたかを知ることのできる史料であるとともに、さらに、由岐沖海戦を記述した徳島側の数少ない史料とも言える。この記述によれば、翔鳳丸の乗組員は70人、その内由岐へ上陸したのは57人であったこと、由岐浦から徳島藩の那賀郡代所に注進が行われていたこと、などがわかる。幕府軍艦開陽丸はその後大坂へ帰り、6日夜、鳥羽伏見の戦いから離脱した徳川慶喜を乗艦させて江戸へ向けて出航することになる。

「御影参諸事控帳」(酒井家文書)

「御影参諸事控帳」(酒井家文書)

 次に、慶応4年1月6日の藩主蜂須賀斉裕の死である。13代徳島藩主蜂須賀斉裕は、実は11代将軍徳川家斉の22男で、12代徳島藩主斉昌の養嗣子となり、天保14年(1843)徳島藩主となっている。その後外様大名ながら幕府が新たに設置した海軍総裁・陸軍総裁を兼務するなど、幕府で重用されることもあった。さらに、外様大藩の藩主として公武合体を目指して動いていたが、鳥羽・伏見の戦いが勃発した時にはすでに徳島において危篤状態であった。これによって、徳島藩内は基本的に喪に服すことになる。藩内すべてには喪に服すべく触書が流され、斉裕葬送のため「読経」の願書を提出している寺院もあった。

 一方、徳島の庶民は、「ええじゃないか」の熱狂の中にあった。慶応3年11月頃淡路を経由して撫養に上陸し、阿波一国を乱舞の渦に巻き込んでいた。
 半田村の商人酒井弥蔵は、表紙に「エエジャナイカ」と記した「御影参諸事控帳」を残している。これは、酒井弥蔵が村人を集め、讃岐の金刀比羅神社へ「御影参り」をした際の帳簿である。七福神に扮装して各村の庄屋や商人の家を回り、各家で施行を受け、お礼として舞を披露する形で金刀比羅神社を目指している。この弥蔵らの出発日も慶応4年1月6日であった。時代を変える戦いも、藩主の死も知る由もないところで、こうした動きがあった。
 徳島の中で見られた、慶応4年1月初旬のこうした動きこそ、この年の混沌とした状況を示しているのではないだろうか。

4、民衆が感じた明治元年を探る
 徳島県条例など基礎的な法令集に「徳島県報」がある。この史料は、県の公文書として、廃藩置県により徳島藩が徳島県へと変わった明治4(1871)年7月から現在まで、数年間の脱落はあるが、ほぼ残されている。また、徳島藩には、天保年間に編さんされた「元居書抜」という藩の法令集がある(国文学研究資料館が所蔵する蜂須賀家文書にある)。しかし、この天保期以降明治4年までは、編さんされた法令集がない。ここを埋めるには、村々の庄屋が回覧されるお触れを書き留めた「御触留」が有効となる。

「申上奉覚(神仏混淆日延願)」(山田家文書)

「申上奉覚(神仏混淆日延願)」(山田家文書)

 当館には、数種類の明治元年の御触留とその周辺資料が残されている。名西郡神領村(現名西郡神山町)の庄屋大粟家文書の御触留である「記録帳」には、鳥羽・伏見の戦いから間もない慶応4年1月23日付けで、徳島藩の民政官である郡代が配下の組頭庄屋(大庄屋)に宛てて次のような通達が出されている。「御国(徳島藩)の制札は其侭に差し置き、公儀(幕府)からの制札はすべて引き抜いて撤去することになった。公儀の制札は各村の庄屋が預かって置き、おいおい郡代役所に指し出すこと」それまで大切にされてきたであろう幕府からの制札を引き抜くという事態は、徳島の民衆にとって時代の移り変わりを突きつけるものだっただろう。
 もうひとつ民衆に大きなとまどいと混乱をもたらしたと思われる出来事に、神仏分離がある。江戸時代の村の中では、ほぼ一体で神社と神宮寺の経営が行われ神仏混淆が通例であったところ、急に社地と境内の分離や、神社の独立経営を行うため宮料の分離、神社に奉仕していた社僧の還俗、ご神体と仏像の分離など矢継ぎ早にお触れが出されている。そうした急速な神仏分離の流れに、村の人びとはとまどいを隠せない。板野郡住吉村(現:板野郡藍住町)の組頭庄屋山田家文書には、明治2年住吉村内の2ヶ寺が神仏混淆の日延べを求めて嘆願書を提出している。これまで一体で運営してきた、土地・人・諸道具を急に分けて両方の運営をこれまでのように正常に行うのは無理だと訴えている。

「年号改元狂歌」(酒井家文書)

「年号改元狂歌」(酒井家文書)

その一方、半田村の商人酒井弥蔵は、慶応4年9月8日の明治改元を自身の狂歌集「年号改元狂歌集」の中で次のように読んでいる。「慶応の四年は九月八日まで、けふ(今日)九日は明治元年」「慶応の四年を限り辰(断つ)のとし、巳(明治2年)は明らかに治まれる年」こうした狂歌に民衆のとまどいは見えない。これまでの禍根を断ち、新しい社会に対する期待が見えている。
 このように、さまざまな新しい出来事に驚き、とまどいながらも、新しい社会に期待を持つ人びともあり、さらにこの時期徳島の社会全体が混沌としていることを示していると言えるだろう。

5、おわりにかえて -文書館史料の意味を知ってもらうために- 
 当館は、徳島県における多くの歴史史料が集まり発信される場となってきている。それは、開館以来営々と行われてきた、県公文書・民間出所資料を問わない史料収集と整理によって培われてきた。最近では、こうした資料の利用者やメディア・論文などへの活用も徐々にではあるが増加してきている。そうした利用に結びつけるための発信のひとつの形として企画展がある。
 当館自らの発信形態のひとつである企画展は、このようにして作られた利用できる史料を土台に、十分な時間や調査を行っておらず企画が十分練り込まれているものとはとても言えないが、ギリギリなんとか企画展としての体裁を整えているというところが実情である。「文書館」というややもすると行政の中で押しつぶされそうな機関としては、少し無理をしてでもこのような発信の機会を大事にする必要があると身にしみて感じている。
 こうした混沌とした明治維新のあとの徳島は、庚午事変(稲田騒動)、自由民権運動と通諭書事件などの危機を乗り越えながら、明治13年(1880)高知県から独立し徳島県として再置され、現在に至っている。史料や組織には分断があるかもしれないが、徳島という地域の歴史はそれ以前から連続して続いているものである。史料の出所に差別なく、「徳島県を知るための歴史資料」を収集・保存し、さらにこうした発信を止めないよう今後も努力していく所存である。