「特集展示 明治初期の三重のできごと~明治維新150年企画~」展示に関わって

三重県総合博物館
藤谷 彰

はじめに

 平成30年5月15日(火)~6月24日(日)までの間、三重県総合博物館(以下、「当館」。)の実物図鑑ルームにおいて、「特集展示 明治初期の三重のできごと~明治維新150年企画~」をテーマに公文書を中心とした展示を行った。本稿では、その概要を紹介したい。

1.展示の趣旨

 本展示では、平成30年が明治150年の節目の年であることにちなみ、この「三重県行政文書」という歴史的公文書の中から、版籍奉還・廃藩置県・三重県誕生・大区小区制・地租改正反対一揆の項目に該当する明治2(1869)年~11年の公文書を抽出して展示を行った。
 また、当館が博物館機能に公文書館機能を一体化した施設であることから、公文書館機能とはどのような機能で、そこで扱っている歴史的公文書とはどのようなものなのかも、併せて展示した。
 この展示は、平成30年が明治150年にあたることから、後述するように、プレ展示として平成29年11~12月に、明治元~2年にかけての歴史的公文書を展示したものの継続という意味合いも含まれている。

太政官日誌 21

太政官日誌 21

2.展示の構成

【第1章 版籍奉還から三重県の誕生】

〈1-1版籍奉還と諸藩の治政〉
 明治2(1869)年1月より始まった藩主(領主)が土地(版図)と人民(戸籍)を朝廷に還納する版籍奉還に関する史料を展示した。版籍奉還では、公卿・諸侯(貴族や大名)の名称が廃止され、藩主は「華族」となり、版籍奉還を行った藩主は、知藩事に任命されたこと、版籍奉還の断行は、土地人民を政府の所有とし、藩主を知藩事という政府の一地方官に位置づけるものであった。
 また、翌3年9月の藩制の公布により、藩制改革が各藩で実施され、この時期には、府藩県の三治制となったことも併せて紹介した。

〈1-2 廃藩置県と諸県の統合〉
 明治4(1871)年7月の廃藩置県と11月に実施された諸県の統合に関する史料を展示した。併せて、下記の三重県域の変遷図、及び諸県の統合がわかる図を掲示した。
 7月14日には、「藩ヲ廃シ県ヲ置カレ候事」と江戸時代にあった藩が廃止されて県が置かれ、県内諸藩の責任者である知藩事は、その職を解かれ東京への移住が命じられ、各県には新たに中央政府が任命した県令が派遣された。知藩事の免職、藩から県への名称変更を除けば、藩庁機構などは引き継がれたため、仕組みそのものは従来のままだった。
 その後、諸県の統合が行われ、11月22日には三重県域は、伊勢国北半分と伊賀国からなる安濃津県と、伊勢国南半分と志摩国に紀伊国牟婁郡の一部を加えた度会県の二県となったことを紹介した。

太政官日誌 38

太政官日誌 38

太政官日誌 41

太政官日誌 41

三重県変遷図(近世~現代)

三重県変遷図(近世~現代)

三重県の成立図(山川出版社『三重県の歴史』より転載)

三重県の成立図(山川出版社『三重県の歴史』より転載)


〈1-3 三重県の誕生〉
 現在の三重県誕生に関する史料を展示した。三重県は、明治9(1876)年4月18日に、「度会県ヲ廃シ三重県へ合併」と、度会県が廃止され、三重県(旧安濃津県)に統合されたことにより誕生した。
 全国的に県の統合が進められた背景には、明治維新を推進した鹿児島藩などの西南雄藩や旧大藩を核に成立した諸県を排除するねらいがあったと言われており、諸県の統合により、全国は東京・大阪・京都の三府と三五県となったことを紹介した。

度会県廃合事務書類

度会県廃合事務書類

太政官布告

太政官布告


各区戸長・副戸長・総代名簿

各区戸長・副戸長・総代名簿

【第2章 町村の様相】

〈2-1 大区小区制〉
 明治5(1872)~11年まで実施された大区小区制の史料を展示した。
 明治政府は、明治4(1871)年4月に戸籍法を制定し、戸籍区とその事務を担当する戸長を置き、翌年には江戸時代に用いられていた庄屋・名主などの村役人の名称を廃止し、戸長と称することを通達した。さらに、地方制度の改革を行い、明治5年~11年まで、数字で各町村を称する大区小区制を実施した。
 これにより、当時、北部地域にあった旧三重県を10大区47小区に分け、大区に区長を、小区に戸籍区の戸長を置いた。また、南部地域にあった度会県は、7大区72小区に分けたが、明治7(1874)年には大区小区制を廃止して区・町村制を実施し、20区としたことを紹介した。

上津部田村絵図

上津部田村絵図

〈2-2 明治初期の村絵図〉
 明治初期に作成された和歌山藩や津藩の村絵図を展示した。
 これらの絵図は、旧県表記から明治4(1871)年のものと推定されるものや、絵図の描き方から明治4年以前のものであると推定されるものである。また、この村絵図の作成理由は、廃藩置県に関連して作成された可能性があることを紹介した。

【第3章 地租改正と反対一揆】

〈3-1 地租改正の実施〉
 地租改正に関する史料を展示した。明治政府は、明治5(1872)年以降、政府の経済基盤の確立を目指して土地租税制度の改革を実施した。その改革は、江戸時代の米による年貢の徴収の制度から、土地の価格を設定して、その地価に税金を課し、金で納入させる制度への変更だった。そのために、土地の所有者に地券証を発行し、土地の反別調査や収穫の調査を行った。税金はその土地の所有者に課せられた。
 しかし、この作業は県が面積や収穫量の数値を操作したりして不十分であったために、江戸時代に比べて増税になる人たちもあり、この改革に抵抗する動きが見られたことを紹介した。

調査丈量野帳

調査丈量野帳

地券証

地券証


三重県下頑民暴動之事件

三重県下頑民暴動之事件

〈3-2 地租改正反対一揆の広がり〉
 地租改正反対一揆に関連する史料、及び一揆の広がりを示した図を展示した。併せて、この一揆を視覚的に捉えてもらうために錦絵を展示した。
 明治9(1876)年12月には、三重県内の旧度会県域では、地租改正に際して、県が決めた米穀売買の値段や土地の等級への不満が起こり、県や区戸長に嘆願が行われていた。飯野郡第八区(現松阪市)では夏の大水害への救済の要求を含めた嘆願の運動が起こった。
 そして、12月18日には、各村々の村人が早馬瀬川原(現松阪市)に集まった。区長らは解散の命令を出すなど鎮めようとしたが、村人たちの人数は次第に増え、その中の一部のものは、打ちこわし、放火など過激な行動を取り、それが三重県内各地へ波及した。この地租改正に反対する一揆は、愛知県や岐阜県にも広がりをみせたことを紹介した。

暴動罹災調

暴動罹災調

〈3-3 地租改正反対一揆の被害状況〉
 地租改正反対一揆の被害状況に関する史料を展示した。
 この「暴動罹災調」は、明治9(1876)年の地租改正反対一揆の被害状況報告書である。
 一揆は人数が次第に膨れあがり、打ちこわしや放火など過激な行動により、各村の庄屋宅や商人宅に被害がでた。この「罹災調」には、被害者の住所、氏名、被害にあった物品、被害にあった詳細な状況が書き留められていることを紹介した。

3.前年の明治期の展示

 平成30年の前年、同29年11月25日(土)~12月28日(木)にかけて、歴史的公文書を用いて、明治初期の三重で起こった事件やできごとに関する史料を展示した。
 その年代は明治元年~2年にかけてのもので、構成は(1)度会府の設置・度会県への改称(明治元年・2年)、(2)天皇東幸・再幸(明治元~2年)、(3)廃仏毀釈と門前町(宇治山田)の神葬祭・廃寺(明治元~2年)、(4)贋金引き替え(明治2年)、(5)旧幕府領管轄地の度会県への引渡(明治2~3年)、(6)忍藩一揆(明治2年)の6章立てとした。
 そして、これらの史料のうち、始めて展示する史料は(3)~(5)で、下記のとおりであった。
(3)廃仏毀釈と門前町(宇治山田)の神葬祭・廃寺(明治元~2年)
 明治新政府の神道国教化、神仏分離政策の中で廃仏毀釈運動が巻き起こった。天皇家の先祖神をまつる伊勢神宮のある門前町、宇治と山田ではそれが積極的に行われた。それらに関連する神葬祭・廃寺願等の史料を展示した。
(4)贋金引き替え(明治2年)
 戊辰戦争の軍費調達のため、諸藩が劣悪な貨幣を鋳造したことで贋金が蔓延していた。四日市町では3,400両あまりにもなり、1両10万円と換算すると、3億4千万円にもなる。府藩県では贋金の買い取り回収作業に乗り出した。時代の節目に起こった事件で、それらの史料を展示した。
(5)旧幕府領管轄地の度会県への引渡(明治2~3年)
 江戸時代の三重県域にはさまざまな藩があったが、明治新政府は「府藩県三治制」の方針のもとに、大名支配地はそのまま、旧幕府領・寺社領は政府直轄地とした。三重県域には度会府が置かれ、桑名郡の旧幕府領は笠松県、信楽代官所管轄の四日市町は大津県となった。これらの府や県は明治2年に度会県となる。それらの史料を展示した。

おわりに~特集展示を終えて~

 平成29、同30年と2年にわたって、当館の実物図鑑ルームにおいて「明治初期の三重のできごと」をテーマに歴史的公文書を中心とした展示を行った。
 本年度の展示に際しては、資料提供など広報活動に努めたこともあり、新聞各紙や地元テレビ番組でも取り上げられ、一定の集客につながった。また、展示解説パネル、キャプションは勿論、展示史料の解説を補助するために、数ページの「リーフレット」備え付け、わかりやすい展示に心がけた。
 ところで、本展示の史料の年代は明治11年までである。実物図鑑ルームにおいての歴史的公文書の展示は、史料の残存状況などから昨年度当初、3年を目処に展示することを考えていた。まだ、その内容は不詳であるが、平成31年は、明治11年以降、20年代までの歴史的公文書を用いて、県議会の開催、県庁新築、明治の市町村合併、産業振興などをテーマにした展示ができればと考えている。